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2012年(平成24)年10月28日(日)
2012 Gikibiru Trail 30km(濃昼トレイル)8:30スタート

濃昼峠 357m

タイム
 0〜15km 2:11:41
15〜30km 4:34:08(2:22:26)
 
 古道・マラニック・登山のマニアとしては垂涎の大会であった。このため、ジャンルとしてはマラソン大会でもあるし、登山でもあるし、マラニックでもあるので、それぞれにリンクする。以前から気になっていたが、濃昼山道が整備されている情報は聞いていた。札幌を5:30に出発して石狩市厚田区に向かう。この大会はまだ認知度が低いのか、それともトレイルランという厳しい大会だからなのか、エントリーは50人くらい。大会要項には、熊よけのためか、鈴・笛は必須と書いてある。天気は午後から雨。カッパを持っていこうか迷うが、皆持っていなそうなので、置いていく。これが少し軽量化になってあとで助かった。
 <以下、ネットより拝借> 
この山道は、当時蝦夷地を直轄していた江戸幕府の命により、場所請負人、濱屋与三右衛門によって切り拓かれ、安政4(1857)年に竣工しています。安瀬から濃昼までの二里二十四丁(10.5km)あり、かつては海路のみの通行であった同区間の陸上通行を可能にしました。地図上のルートで最も高い位置は553mで、竣工の同年に箱館奉行に従って濃昼山道を巡検した玉蟲左太夫は、山岳上や沢中の難路が続くこの山道について「かかる開き方にては開かざるも同然なり」と書いています。安政6(1859)年には、幕府から蝦夷地の警備と開拓を命じられた東北諸藩のうち、庄内藩が、藩士440人、農民1,365人を浜益、手塩などの地へ向かわせているように、防衛と開拓のために使われ始めました。
 明治期になってからは、濃昼山道は、地元の人々の生活道路として使われますが、狭くて崖の迫る道であるために、非常に苦労して通行したようです。明治43年、兵214名、馬157頭、車両102台でこの山道の強行軍を試みた旭川の輜重第七大隊は、シャベルやつるはしで路面を削りながら必死に車両を進めましたが、急峻な山道にさしかかってからは崖下に転落する車両が続出したため、ついに車両の通行をあきらめて、車両の荷を小船に移し変え、兵が馬だけを引いて通ったと記録されています。
 濃昼山道は、中途で何度か道筋が変えられているようで、『浜益村史』『厚田村史』中の地図では、最も高い位置は濃昼峠の357mで、江戸期に開削された険しい山岳部を通るルートではありません。明治の中頃、濃昼の網元木村源作氏は「…自分の漁場に通うヤン衆達のために1万円を出して厚田側の山道をつけなおした」と後年語っていることも合わせて考えると、人々が容易に通行できるようにルートが変えられていったようです。
 昭和46(1971)年、国道231号線が開通するとともに濃昼山道は使われなくなりました。その後、廃道となっていたこの山道の自然と歴史的経過を多くの人々に伝えたいと「濃昼山道保存会」が結成され、会員の手によって草刈りが行なわれた結果、2005年秋に全線を通して歩くことが可能になりました。この道筋は、人々に命がけの通行を強いた安政期のルートとは異なって、比較的容易に通行でき、眺望の素晴らしさや季節ごとの花の美しさ、紅葉の鮮やかさなど豊かな自然が楽しめるものになっています。
   
   
   
   
  スタート前に公園を散策する。恋人の聖地という展望台もある。旧厚田村は偉人が結構いるのだ。創価学会の二代目会長の戸田城聖、作家の子母沢寛など。
   
   
スタートしてまずはスキー場を登って、しばらく国道を北上する。行きは追い風だったが帰りは向かい風で大変だったのだ。 
   
わかりやすい看板。登ってすぐに水準点がある。 
   
   
   
   前半はこんな感じで列を組んで走る。後半は一人ぼっちで走りました。
   
 このような沢を3本ほどこえる。  
   
 来りし石狩市中心街  
   
 紅葉が綺麗 昔の名残で石垣が結構残っている 
   
   峠についた。ここから大パノラマが広がる
 
 
 
 
   
 一人、仮想人間がいた 折り返し地点15kmは濃昼集落。小中学校は20年前に閉校。寂しいムラでした。 
   
あとは、来た道を戻るのです。これが辛い。旧山道もありました。 
   
   ゴール後にそばをいただく。うまい。

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