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「意拳学」(韓星橋)

 
意見理論編
総論

一 拳の意義
 養生と技撃は人々が拳術を学ぶ主な目的である。なぜなら人は一個の生命体として、その内外の環境の普段なる変化の中で、自己を生存させるために自身の状態を常に調節し、いかなる時も自己の動体平衡を保つ必要があるからである。 
 内環境とは、人体内部の五臓六腑、四肢百骸が随時、相対的に胴体平衡にあることで、平衡状態が不調となれば、即ち疾病を生じ、生活に影響を及ぼし、生命を脅かすことになる。
 外環境とは、人体外部の自然環境の変化と社会環境の各種不利な要素、打撲や毒蛇、猛獣の襲撃、または人間自身による相殺であり、それゆえに人類も外部環境に対して生存競争が必要である。
 人体それ自身より論ずれば、誕生して以来、既にこの二つの環境の変化に相応して自己を調節する反応能力を備えている。然るに、この種の反応能力を強化し、比較的激しい環境の変化にも対応できるように、養生と技撃を目的に拳術は発展したのである。
 それゆえ、王向斎は意見を「性命之学」と称した。同時に「何を拳と為すか?それは一招一式(ひとつの技術、ひとつの方法)の拳にあらず、拳拳服膺の拳である。「何為拳、非一招一式謂之拳、是拳拳服膺謂之拳」と語った。さらには、拳を学ぶ目的は、人体の内外環境の無限変化に対する応変能力を高めることである。
 養生の方面から述べると、拳の学習を通して身体の自動調節能力を強化し、身体を最高状態まで調節し、随時自然界の変化に応じた同時性の運動を保持する。これが無病先防の意義である。身体が各種原因によって既に不調となった場合、拳を学ぶことで特殊調整を行い、身体の平衡を取り戻し、治療目的を達成するのである。
 技撃の方面から述べると、拳の学習を通じて身体素質を向上させ、外部からの攻撃に対しては有効的に防禦反撃をして、敵を殺傷し、自己の安全を保持する。よって意拳は生命の安全をもって最終目標とするのである。その中には、養生と技撃の二つが主となる一種の体育運動が含まれる。
 大自然の中では、各種の事物は、事ある形式や連続的な変化の状態に有り、循環し、さらに分類できる。事物は往々にして運動の消長変化に従い、量、質、形が変化し、人類に対する価値も変化してきた。変化するものは、それらはただの事物の同一、相違、誘導体というものだけであり、テーブルと門は木で出来ているが、木という一点においては同じものであるが、一方は家具、門は建築物に属し、両者には差異が生じている。
 このように世間の運動や事物は、その運動過程において定義を定めることは難しい。そこには以下に分類するかという問題があるが、それを解決するために、主観の需要により問題を観察する角度を確定し、標準を定め、それにより事物の属性を確定する。
 この道理から意拳を見ると、極めて豊富な内容が含まれており、養生と技撃以外に、哲学、芸術、物理学、生物学、心理学等が含まれている。それらの学問を凡そ理解する必要がある。
 「武」という字は、中国最古の古典「説文解字」の中に、既にその認識があり、止戈をもって武を為すと述べてある。「止」は足を表し行進の意をなし、「戈」は兵を表し攻防の意をなす。この両者は攻防の意味を持つ。攻防を行うには、良好な身体素質の基礎が必要となるため、「武」には養生と技撃の双方が内包されているのである。
 その上、意拳は、あらゆる角度からの探索方法を採用し最適な実証を加え、意拳の思考形式、訓練順序を決定し、目標を明確化し、豊富な内容を備えることを追求している。よって、意見の学習中に、常に極め尽くせぬ豊富な内容を感じ、その運動形式が高度に統一、強調され、その変化が測り知れなく、高い美学的価値を備え、練習する者が八方極遠を遊泳するかのごとき様は見る者を魅了する。
 これにより、意拳練習者は、養生と技撃の訓練において無限の楽しみを味わうことができる。

二 拳術の自然科学的特性
 拳術は、一種の体育運動であり、物質的運動は、時間と空間の範囲内で、必然的に各種の自然規律的要素の限定を受ける。例えば、前方へ拳を打つという動作において、その完成には、時間、速度、距離、さらには出力方式、力の伝導度など自然力学の属性を備えている。即ち拳術運動は科学的理論によって、運動方法上の得失を量る。末に先師王向斎は、「拳学にはただ是と否の区分が有るのみで、流派的見解など有ってはならぬ」と語り、この道理を説明している。
 これにより、意拳学習者はまず、流派の見解を取り除き、科学をもって原則となし、法を持って師となす思想を樹立しなければならず、そうすることで、比較的に容易に意拳の真髄を理解することができ、すのうえ、各種の運動方法を把握することができる。
 これは先人の基礎の上に発展し、意見で言えば、形意拳の基礎の上に、太極拳、八卦掌、その他の多くの拳学の精華を吸収融合し、今もなお、発展過程のなかにあるものである。

三 意拳の特長
(a)意拳は人体の自然反応能力の養成を目標とする
 人体の自然反応能力とは人体に先天的に備わっている内外環境変化に対する自然反応能力である。外気温に対する体温調節機能、小さい虫に対する瞬きによる眼球の保護機能。さらには、サッカーのゴールキーパーのように、練習により培った動きなどもそうである。
 拳術では、二人が立ち会った時に、向かってくる拳の速度が速くなると、反応時間もさらに短くなる。いかに技を繰り出そうかと考えることは不可能で防ぎようがない。ゆえに王向斎先師は、「交勇する者、思悟するべからず」(交勇者不可思悟)と説いている。
 意見では模式判断、まずは空間において向かってくる各種拳の可能性を分析し、この基礎の上に人体の反応能力、活動能力を養成し相応の動力定型を形成する。防御の時にはすぐに矢を放てる状態で運用自在にする。意拳の訓練手段は、装備方法や分解合成の原則を通して、人体の自然反応能力を強化し、最終的に整体応変能力を向上させるものである。正に所以、「拳に拳無く、意に意無く、無意の中にこそ、真意あり」(拳無拳、意無意、無意之中是真意)の最高段階なのである。)

(b)意拳は「意」を重んずる
 意拳は意念活動をもって人体の潜在能力を導き出し、形神合一に達することを目的とする。意の先導の原理に基づき各種訓練を行う。大脳・神経・筋肉という流れで運動の全過程を形成する。大脳の意識活動は運動中において終始、主導的な地位を占め、筋肉の収縮活動は従属的な地位を占めている。意念によって筋肉の収縮力は生まれ、収縮力によって運動の過程を完成する。故に王向斎先師は、「『意』の字を挙げるに、概ね精神をもってする。即ち本拳は、意感と精神の義を重んずるなり」と、さらには「意は力の総帥と為し、力は意の軍と為す」(意為力之師、力為意之軍)と述べている。
 意見の学習は、意を以て先と為すべきであり、各動作は動作の意念活動を明確にした上で、初めて動作の正確さを論じることができる。「形骸の似るを求めず、ただ神意の足るをもとめる」(不求形骸似、但求神意足)と述べる。初心者は老師に間違いを指摘され、言われた通りに直そうとするが、やはり間違っている。直そうとしても間違っており五里霧中になってしまう場合があるが、これは「意」の点から正確さを求めないからである。ただ形体動作を改変しても永久に正確さを求めることはできない。故に意拳は先に「意」を求めるのであり、もし、この特徴を掌握することができたなら入門できたと言って良い。

(c)意拳は科学理論を根拠に運動実践を指導する
 意見の学習過程において、常に運動方法の正誤判断の問題に出くわす。いろんな人々の意見があり迷ってしまう。経験の長い人の説が必ずしも正しくない。意拳は初めから自己の自然科学の属性により、自然科学の範疇はただ客観的に存在する運動規律があるのみである。この規律は科学公理の基礎の上に成り立っており、意拳動作の正誤判断は科学原理を判断基準としなければならない。
 例えば、意拳において、力の運用を述べるなら、力学の各種原理(ニュートンの三法則等)の符号が必要となり、これにより運動中に用いる力の得失を分析する。王向斎先生は「いわゆる法とは、原理原則の法であり、枝葉末節、片面的で融通の利かない方法の法に非ず」と述べた。よって意拳の学習では、必ず「法を以て師と為す」思想を樹立し、至る所科学理論を根拠として各主動作の原因を原因を明確にしなければならない。こうしてこそ、人がするから自分もするというような盲目的な練習の迷い道を避けることができるのである。

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