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中国古今人物論15 「王向斎」(酒見賢一)より

 
<その2>

 郭雲深の教えを受け始めた王向斎の病弱体質はすぐに改善され、虚弱であったことなど忘れてしまうほどで、ひたすら拳法修行に熱中するようになった。相変わらず痩せすぎではあったが、家族が見違えるほど元気な少年になった。
 郭雲深はまず形意拳の基本功である三体式の站椿功を念入りにやらせた。冬の季節、王向斎が早朝の三体式を終えると郭雲深は足裏の湿り気をチェックし、発汗の具合が足りないと、何度でも繰り返させた。まことに厳しい指導であるが、晩年の郭雲深が站椿功をきわめて重視していたことがわかり、おそらく王向斎は三体式の影響のもとで意拳独特の站椿功をつくりあげたと思われる。
 病弱者には安静ばかりでなく質量ともに必要十分な運動をさせる必要もある。しかし概ね運動やスポーツは健康な若者のものである。虚弱者に運動をさせるとすぐに動悸息切れを起こし、血液がよく循環し筋肉が適度に披露する前に動けなくなり、結局運動不足の解消は覚束ない。ならば心拍数をあまり上げることなく、息苦しさを覚えるほどでなはない全身運動をある程度の時間続けられるように工夫すればよい。これは高齢者にも当てはまることである。王向斎が後に思うに体験的に站椿功はこの目的にぴったりであった。
 また郭雲深は他の弟子には形意拳の套路を指導したが、王向斎には站椿の重要性を説くばかりで、三体式やその他の站椿功しか練習を許さなかった。これには王向斎も不満だったから、兄弟子にこっそりと教わった。それを知った郭雲深は、「玉皇大帝(道祖神の神。郭雲深が自分をそう喩えている)がここにいるというのに、大帝に学ばず、お地蔵さんを探して教わろうとするとは、なんたる馬鹿者だ」と叱りつけた。郭雲深は王向斎の稀にみる才能を見抜き、波の弟子であれば時間をかけて順序よく教えるしかないところを、最初から郭派形意門の真髄を叩き込もうとしたのであろう。(向斎になら、わしが数十年かけて到達した境地をダイレクトに伝えられるかも知れぬ)と期待したのであった。自分の余命も長くないことも知っていたろう。出来る限り全てを伝えたかった。郭雲深は優秀な弟子を少なからず育てたが、それ以降もかれの拳法は進化しており、しかし晩年に到達した拳境はまだ弟子に伝えることはできていない。最後に王向斎が現れてくれたことは祝福のようであった。
 王向斎は十三の時にはひょう(「金」へんに「票」)局の武術家をあしらうほどの腕前になっていた。それを訊いた郭雲深を喜ばせ、「そうだろう。あいつらは站椿をやらないあら、なっておらんのだよ」と言われた。王向斎はこの時に站椿の重要不可欠なこと、武術で使われる力や勁というものを知ったと後に語った。郭雲深は運が良かったのかも知れない。一子相伝的にすべてを伝授できるほどの弟子に恵まれる指導者は滅多にいないからだ。そして王向斎が十代半ばの頃、郭雲深はその拳道一筋の生涯を終えた。王向斎は郭雲深に全伝を受けた最後の弟子として知る人ぞ知るものとなった。
 まだ、十代の王向斎は幾つかの武勇伝を残しつつ拳名をあげていった。若い頃の王向斎はおとなしげな外見に似ず、激しい気性を持ち合わせていた。自ら挑んで他流試合を行っており、多くは勝ちを収めたが、負けることもあった。だが、例外はあるが、武術家の大家となるような者は一種の狂気を持っているのが当たり前で、やんちゃな者が多く、若い自分に喧嘩や挑戦試合のひとつもやらないようでは武術家として適性がないといっても過言ではない。実践に勝る修行はないと言えるくらいである。

◆◆◆

 王向斎は二十二のとき北京にゆき軍隊の炊事係に雇われた。まだまだ武術で生活できるような立場ではなかったのである。王向斎は身長が170センチにも満たず、華奢な体つきをしていたから、とても武術の強者には見えない。あるとき兵士がからかって足払いをかけたのだが、逆にあっさりと倒されてしまった。たまたまそれを呉封君という将軍が見ており、興味を抱いて接見することにした。呉封君は明末清初、陳円円とのロマンスで有名な将軍呉三桂の末裔である。
 王向斎がかの有名な郭雲深の弟子だと知った呉封君は、見所のある青年だと思って娘を娶らせたのであった。こういうことがあって、王向斎は武術師範となり武名は北京に広まっていった。
 1913年、当時、袁世凱が大総統として中国の全権を掌握していた。その袁世凱の武術教官に李瑞東という人がいた。李瑞東は太極拳を学び、自ら「太極五星錘」を編み出し、天津の中華武士会にも参加していた武術会の大物である。年は50であるが身長185センチのがっしりとした体格の強豪である。大きな鼻をしていたので”大鼻李”とあだ名されていた。その李瑞東が、あるとき、失言だったろうが、「もう亡くなっていたが、形意拳の郭雲深はわたしの相手ではない」と言ってしまった。それはすぐに王向斎の耳に入り、師匠をけなされて黙っているはずもない。「でたらめをいうのもいい加減にしてもらいたい。拳が何かも分かっていないくせに!」と言い返したのであった。袁世凱のおぼえよろしい武壇の大物。しかも年長者に対して非礼というほかなく、それほど頭に血が上ってしまったのであろう。その頃には王向斎も陸軍の武術教練長となっており、武壇の名士であるから、若僧でもその発言には重さがあった。結局、武術家らしく試合をして正否を定めることになった。
 この争いは言うまでもなく大事となってゆき、ついに袁世凱の耳にも入った。都を騒がす大勝負の予感である。どんな男が自分の武術教官に挑んでくるのかと興味を持ち、王向斎は呼ばれて時代の権力者袁世凱と会見することとなった。何の用事は別にして、まあプロボクシングのルーキーを総理大臣か首相官邸に呼ぶようなものか。袁世凱は王向斎の、目だけは爛々と光らせてはいるものの、小柄な姿を見てとても強い武術家とは思えず、訊いてみた。「貴殿は李先生に試合を申し込んだそうですな」
王向斎は微笑して、きっぱりと言った。
「いやしくも拳術を学ぶ者が試合もできないようでは何のための拳術修行でしょうか」
「では王先生は李先生に勝つ自信があるのですか」
「それは手合わせをしてみないことに分かりません」
「こう言ってはなんだが、あなたがたのような名人どうしが試合をするとなれば、命を落とさないまでも大怪我をすると思うが、そのときはどされる?」
袁世凱としては、王向斎が勝つ目など微塵も見えなかったのだろう。暗に止めろと言っているようにも聞こえる。そのとき仲介の労をとってくれていた北洋軍閥の大物である徐樹しょう(「金」片に「爭」)が、
「総統、双方が試合を望んでおるのです。どういうことになろうと、それぞれが武人らしく責任をとることでしょう」
と後押しをしてくれた。袁世凱は「わかった。それはそうとしても、やはり警察に届を出しておきなさい」と試合を認めた。
 他流試合の難しさというか、喧嘩でも、問題になりがちなのはそれが終わった後の話である。どちらかが勝っても一族門弟その他の泥沼の報復合戦が続くといったことは、中国武術の世界ではしばしば見聞するところで、ひとたびこじれるとその解決がひどく難しくなる。ヤクザ組織の抗争のような醜状を呈することさえままあって、お金で解決できるならいい方である。かのブルース・リーも試合、喧嘩のやり過ぎがたたり、香港にいるのが危険になり、アメリカに渡らざるを得なくなったという説もある。しかしこの場合、袁世凱が承認し、力のある仲介者や後見人がおり、関係官庁に話をしておくことになり、下手をすれば人生を棒に振りかねないドロドロも避けることができる。こういう次第となったことは(結局のところ必要はなくなるわけだが)、王向斎の運の良さと言えるかもしれない。
 こうして試合は安副胡同にある徐樹しょうの官邸で行われることになった。宴が設けられ、軍の幹部、政界人、北京の武術名士らが招待されてのことである。王向斎は先に到着していて、李瑞東が遅れて到着した。王向斎は徐樹しょうらとホールの外に行き出迎えた。大勢の出迎える中、李瑞東は悠然とした態度でやってきた。ホールに入るときは年長者や社会的地位の高い者が先に入るというのが礼儀であり、王向斎は自然に李瑞東に譲ったが、李瑞東もまた譲って、互いに入口でしばし譲り合いになった。そうしながら李瑞東は王向斎を観察していていたわけだが、(どんな不敵な男かと思っていたら、痩せたちびすけではないか、これなら試合などする必要はなかろう)と考え、この場で力の差を見せつけて恥を掻かせて終わりにしようと思った。体力、膂力ともに明らかに自分が勝っている。
 そこで李瑞東あ先を譲るふりをしながら腕を王向斎の脇に差し入れそのまま釣り上げてしまおうとした。李瑞東の手が王向斎の右腕の付け根に伸びてきた。王向斎は、李瑞東の意図をいち早く察し、頭を僅かに右にひねった。
「李先生、恐れ入ります」
と言った瞬間にはドンという大音とともに李瑞東はホールのドアに叩きつけられていた。
「あっ、李先生、どうなされました」
王向斎は口をあんぐりと開いている李瑞東に手を貸して助け、
「なにとぞお先にどうぞ」と譲るのであった。
(やられた!なんという強烈な発勁か)というのが、李瑞東の驚きであったろう。おそらく肩からの発勁であろう。普通の客には李瑞東が足でも引っ掛け転びかけたとしか見えなかったろうが、武術家たちは
「もはや勝負あったな」
と見ていた。結局、予定の試合の前に李瑞東は席を外して帰ってしまい、武術会を賑わせた事件はあっけない幕切れを迎えたのであった。
 その後、徐樹しょうが王向斎と李瑞東の間を取り持ち、わだかまりを無くさせようとしたが、、李瑞東はさっさと職を辞して郷里に帰っていった。潔く敗北を認め、武術家の矜持を示したのであった。王向斎は「若気の至りとはいえ、いっときの客気に逸って、大先輩である李瑞東先生に恥をかかせてしまった」と後悔し、この時のことを話すたびに自らと弟子たちを戒めたという。
 同じ年、王向斎は陸軍省の招聘を受けて、武技教練所の執務長となった。王向斎は、孫禄堂、劉奇蘭(郭雲深の兄弟弟子)の子息の劉文華、李存義(劉奇蘭の弟子)の高弟のの尚雲祥といった形意門のそうそうたる実力者たちを招聘して武技教練所に一大活況をもたらした。王向斎の人徳と形意門下の絆の強さがしのばれる。
 周子炎が王向斎に挑戦したのはこの頃である。周子炎は山東省臨清の人で、土地一番の大金持ちの家に生まれたが、武術に憑かれて家財を傾けてしまったという武術狂である。北京におもむき当代一と評判の王向斎に試合を申し込んだ。一度負け、リベンジを期して翌年にまた挑むも負け、さらに一年精進して挑んでまた負けた。ついには王向斎を心底から認めて門下となったのだった。
「大鼻李は引退らせられ、周子炎は三度敗れて門下に入った」という故事がこの頃の北京武術会で評判になった。

◆◆◆

 王向斎が形意拳をあらためて意拳を創始したのは1925年の前後、昭和元年である。王向斎の没年は1963年であるが、この年は昭和38年であり、先頃韓国映画となった力道山が不慮の死を遂げた年である。王向斎は現代中国史の前半をじかに目撃しつつ、武術に邁進したのである。
 1916年に袁世凱が没し、軍閥専横の時代に入り、5・4運動、孫文の広州政府樹立、中国共産党成立、第一次国共合作の流れの中、政局はめまぐるしく変動した。その後は大陸に内乱と戦争の時代が続き、如何なる有力者でも生き難い時代であった。王向斎は台湾、香港に移住することをせず、生涯中国を出ることはなかった。
 話を戻せば1918年に武技教練所が閉鎖されたことを機に王向斎は諸国遊歴、武術修行の旅に出ることにした。生涯を武術研究に捧げる決意を固めたのであった。この旅が王向斎の武術の一大転機となり、新興拳法・意拳を成立させる基盤となる。まだ30代であり、十分に若かった。この時代に武者修行の旅をすることはある意味で時代錯誤的で、また難事であったはずだが、親交のある武術同好の士の世話を受けたり、軍のコネにも助けられたろう。王向斎はまず武術万芸の源流とされた嵩山少林寺に向かった。この時に少林寺史に有名な恒林和尚とあうことができた。恒林和尚(1865〜1923)は傑出した武僧であり、民の求めに応じて匪賊集団を壊滅させ、また日本軍が河南省に迫ったおりには保衛団を結成して徹底抗戦した。少林寺には「心意把」という秘技が伝えられており、一説には形意拳は心意把から派生したとされている。王向斎は恒林和尚と交流し、滞在研鑽は半年に渡った。
 次に湖南の心意拳の達人、解鉄夫をたずねた。江南第一とうたわれた解鉄夫は奇行奇言が多く、また、人と武術の話をすることなど滅多に人々から狂人ではないかと思われていた。王向斎は手合わせを願い出て、十回闘って一度も勝つことが出来なかった。王向斎も負けず嫌いである。素手の拳術ではとうていかなわないと知り、食い下がって得意の棒術での再挑戦を試みたが、「器械は手腕の延長にすぎん。手がダメなのだから、武器術でも勝てはせんよ。まあ、かかってきなさい」と解鉄夫にほとんど子供扱いにされてしまった。これまで無敗に近かった王向斎は愕然とした。
「能上頭上有能人(上には上がいる)」
 これほど無残な敗北は初めてである。王向斎は顔を赤くし、恥じて去ろうとした。
 しかし、変人解鉄夫のほうが王向斎を気に入ったらしく、
「三年後にまた挑戦しに来るつもりかね?それよりここに留まって一緒に研究したらどうだろう。なに遠慮はいらん。わしももう年だ。これまで多くの武術家と立ち会ったが、おぬしほど筋の良いものはいなかった。拳有となろうではないか」
と言ってくれた。王向斎は拝跪して一礼し、留まり、解鉄夫の教えを受けることとなった。一年後には王向斎の技量は格段の進歩を遂げていた。この時も上達の鍵は站椿功であった。旅立ちの日、解鉄夫は名残惜しい様子で、長江の畔まで見送ってくれ、
「向斎よ、おぬしの武芸は長江の北では向かうところ敵なしであろうよ」と言った。思わぬ褒め言葉に王向斎は涙をはらはらとこぼしたのであった。
 王向斎の目的は南方の武術の研究にあった。いわゆる南拳と北腿、南派、北派の拳法と、武術の特徴の分布には南北の違いがある。王向斎が知っているのは、主に北方の拳法であった。しばらく南方に腰を添えて著名の拳師を訪ね歩くことにした。福建の軍隊で武術教官をつとめたりしながら、名師と交流して学び、とくに南派少林系の福建鶴拳や、四川の梅花拳は軽視すべからざるものとして、自らの拳法にその長所を取り入れた。
 1925年には、5・30事件が起こった。蒋介石が国民革命軍司令官として台頭し、翌年から北伐が開始される。王向斎は南方の政局騒乱から離れて、久しぶりに北京に戻った。
 南方をまわって拳を磨くこと数年、帰省したおり郭雲深の墓に詣でてその記念碑を建てた。諸国を巡ってみて、あらためて郭雲深の偉大さを思ったのであろう。(この稿続く)
 

  <この項続く>
 

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