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中国古今人物論15 「王向斎」(酒見賢一)より

 
<その3>

 王向斎が天津の張占魁のもとに行った時のことである。張占魁(1895〜1940)は河北省河間の人郭雲深と仲の良かった劉奇蘭に形意拳を学び、薫海川に八卦掌を学んだ。張占魁は天津武術会の巨頭であり、侠気にあふれた人物で、自ら盗賊取り締まりなどの活動をしていた。張占魁は孫禄堂や王向斎を可愛がり、天津に来たときには親しくその門に出入りさせ、王向斎が武術会で名を成すにあたり大いに後援した。
 あるとき張占魁が言うには、詳しいことは省くが、有形無象の武術家が乱立していたせいで、形意門でも師承の伝において筋の通らないことをする者が多くなってきた。同じく点心の形意門の者が大先輩の張占魁に経緯を払わず、自己宣伝に長けていたからである。そういう話を聞くと黙っていられない王向斎は単独で相手のところに乗り込み、拳術の実力を示して筋を正したのであった。
 そんな活躍が知れ渡り、李景林、張之江といった武術界や軍閥の大物と面識を得ることになった。国策的に武術熱が高まっていた時期でもあり、王向斎は張之江の依頼を受けて全国武術大会の審判長を務めたりした。1928年のことである。そのあと武術名家、銭硯堂に会うべく、”東洋のシカゴ” ”魔都”と呼ばれつつあった上海に向かった。銭硯堂の父親は銭錫採といい、かつて郭雲深が正義感のために土地の無頼漢を殺したときに知事をしており、減刑の働きかけをしてくれた人である。銭硯堂は郭雲深に形意拳を学んだ弟子であるから、王向斎の兄弟子ということになる。
 王向斎は銭硯堂に大いにもてなされたが、
「組手をやってみようよ」
と求められていささか困った。銭硯堂は実力者であるものの、先輩であり老年であり、恥をかかせたくなかったからである。再三所望され、仕方なく、
「では銭先生、ソファの前にお立ちください。先生を座らせてご覧にいれます」
と言った。銭硯堂が、馬鹿なことを、と微笑んで、崩拳の一撃を王向斎の胸に放った。拳を掌で受け止められ、押さえられたと感じた時には、銭硯堂はやや飛んでソファの上に腰を下ろしていた。銭硯堂は不意に涙をこぼし始めていた。
「ああ、懐かしや。あれから何十年もたったが、郭雲深先生の面影に接することがかなうとは思いもよらなかった。よい後継ぎをお育てになっていたのだな」
と言ったのであった。
 銭硯堂は王向斎を引き止め滞在させながら、しばしば宴をはり、上海の各門派の武術大家と交流を持たせた。たまたま孫禄堂が訪れたとき、出席者たちは王向斎と孫禄堂に演舞のリクエストをした。この頃、王向斎と孫禄堂に演舞のリクエストをした。この頃、王向斎と孫禄堂は仲が悪いという噂が流れていたらしい。二人とも郭雲深の弟子であったが、孫禄堂は内家三拳を統合した孫式太極拳を確立しており、王向斎もまた内家拳の究極としての意拳を世に問うていた。とはいえ、仲が悪いというのは単なるデマに過ぎず、お互い拳法修行一筋の者同士、王向斎が大先輩の孫禄堂を立てたことは言うまでもない。

◆◆◆

 武術家というのは因果な稼業である。流派の看板を出しただけでも、もう闘争は避けられない。王向斎が挑戦するようなことはほとんどなくなったが、今度は挑戦者がひきもきらずに現れる。昔、自分も似たようなことをやってきたから、それはそれで仕方ないのである。道場破りに敗北するような門は存在するべくもない。何故なら負けたら道場を閉めるほかないからである。いかに武名が高く、実力があろうと、道端であろうが、かりに相手が大勢で来たり、卑劣な闇討ちであったとしても、倒されてしまえば、
「あれもなかなかの拳士だったが、結局はその程度だった」
とすべてが否定されかねない厳しさである。というわけで、この時代に武名が高くて生き残り、道場が無事であった武術家は皆が皆、恐ろしいまでに強かったといって差し支えないと思う。
 王向斎を訪ねて挑戦した武術家、腕自慢たちには
「きっと巨漢の物凄い豪傑が出てくる」
という先入観があった。そこで痩せて小柄、物腰の穏やかな文人学者のような王向斎が出てくると、失望というか、何かの間違いと思ったものである。しかしいざ立ち合ってみると、たいていの者が、命を奪われずにすんでよかったと胸をなで下ろすことになった。
 王向斎の他流試合の中でも最も派手なものが上海滞在中に起こった。1930年、王向斎が40歳のときのことである。上海に西洋人の青年会があり、世界ライト級ボクシングの王者(諸説あり)であったイングルというハンガリー人がコーチをしていた。イングルの年齢は分からない。このイングルは上海の武術家と試合を行っては全勝し、
「中国の武術は語るに足りぬ」
と豪語していた。魔都の巨魁、上海青幣の頭領として有名な杜月しょう(「竹」のかんむりに「生」のした)や黄金栄がたまりかねて新聞に、
「イングルを倒した者に五百銀元(18.5kgの白銀)出す」
と賞金をかけたが、倒せる者は出てこなかった。阿片戦争以来、中国は列強の食い物にされてきた屈辱の歴史があり、「アジアの病夫」の汚名返上は名士、民衆の悲願であった。
 そこで王向斎に白羽の矢が立った。本来なら見せ物じみた試合などしたくなかったであろうが、中国武術の名誉のためにやむなく試合を決意したのであろう。当時の上海は色々な意味で国際都市となっており、多くの外国人が居留していた。見物人も多く、一般の武術家とは一段も二段も重みが違う王向斎は、万に一つも負けるわけにはいかなかったはずである。イングルがライトウエートなら約60kg前後、王向斎は若い自分と変わらず細身の50kgくらいである。筋骨隆々のイングルは王向斎を見て拍子抜けしたことだろう。パンチ一発に耐えられるかと不安がるほど差が感じられた。
 さて肝心の試合はまことにあっさりと終わった。
 ゴングが鳴るやイングルは前に出て、ショートパンチからの右を王向斎に打ち込んだ。王向斎はガードをするためというでもなく、ふと腕をあげてイングルの腕に触れさせた。その瞬間、イングルは崩れ落ちており、しかも失神していた。何が起きたのか分かったのはけい眼の武術家くらいのものであったろう。
 後にイングルは「わたしが見た中国拳法」というタイトルの記事をロンドン・タイムスに寄せて、この試合のことを書いた。
「わたしの腕が王老師の腕に触れた途端、まるで電気に打たれたように感じ、心臓が飛び出すかと思った」
中国武術侮りがたし、述べている。電気ショックを受けたような打撃というのは、王向斎と手合わせをした武術家や弟子たちがひとしく語っているところで、王向斎の拳の特徴である。いったいどういう技術を使うとそうなるのか、想像がつかない。
 日本人と交流戦をした話もある。盧溝橋事件(1937年)を発端に日中戦争が開始され、大陸は毛沢東の八路軍、蒋介石の国民党軍、日本軍の三つどもえの泥沼の戦いに陥った。日本軍は激戦して北京を中心とする北支をほぼ占拠した。そのころ王向斎は還暦まぢかの年齢である。北京では日本人が肩で風を切って歩いており、王向斎が強い不快感を抱いていても不思議がなかった。
 中国拳法の達人がいるというので、試合を申し込んだ血気盛んな日本人は少なからずいた。また、友好的に日本の武道家が何人も訪問もしている。日本レスリングの父と呼ばれる八田一朗が(そのときはレスラーではなくまだ柔道家であった)王向斎と立ち会ったが、まったく歯が立たず、何度も投げられてしまった、と驚いている。王向斎は柔道家相手に自分の袖と襟を自由にとらせ、技をかけさせたのだが、投げるどころか、重心を崩すことすら出来ないのであった。これでは寝技に持ち込むどころでない。
 外国人で唯一の直弟子となった澤井健一は、柔道、剣道の有段者で、腕に覚えがあった。しかし、王向斎に体術でも剣術でも、これまで体験したことのない魔法をかけられたかのような負け方をして、自信を完全に喪失してしまった。澤井健一はこの不可解な武術に強い興味を抱き、王向斎に弟子入りをする決心をした。時節柄、日本人の入門が許されるような状況ではなかった。しかし何度断られても懇請をやめない澤井の強い意志を見た王向斎は入門を許し、分け隔てなく教えたのである。他の武術家や弟子のほうが
「こともあろうに東洋鬼子に自国の秘術を伝授するとは」
と苦々しく思っていたろうが、そんなことは気にも留めず、王向斎の器はたいへん大きかったというしかない。澤井健一は日本に帰国後、王向斎の許可を得て「太気拳」を創設した。戦後、最も速い時期に王向斎直伝の秘術が日本に伝わっていたのである。

◆◆◆

 王向斎はこれまで奥義としてことごとく一部の者にしか伝えられなかった拳法の秘伝を指導や論文で公開し、武術界の弊害を暴露し、武術界の閉鎖的体質に衝撃を与えた功があり、進歩的な考えを持っていたようだ。拳法は魔法でもなんでもなく、すべて心身の潜在的顕在的本能的自然的な合理的道理を持っており、至誠をもって求め続けるなら誰にでも習得できる、とする。拳法は拳学であった。
 北京武術会は押しも押されぬ重鎮となった王向斎の拳法に「大成拳」の称号を贈った。「中国武術会の集大成である拳法」という意味である。しかし、王向斎は自ら大成拳を称することはほとんどなかった。
「武道拳学には頂点などなく、どこまでいっても『大成』することなどあり得ない」
どんな名人達人になっても武術修行にゴールはないということだ。

◆◆◆

 意拳がいかなる拳法かについては、興味がある方は今は紹介書やビデオも出ており、まずはそれらをみることをお勧めする。その上で試験を述べるにとどめたい。
 套路(型)のない拳法、言い換えれば無形の拳法という概念は多くの流派が持っているものである。中国哲学のエキスたる老荘思想や『易』は道の至上にしても無形なることを唱え、中国武術も大いにこの理論を取り入れたところのものである。「型・有形」から「自在・無形」に至るとは、修行者の目指すべき理想の境地である。よって意拳に型がないということ自体に概念的にはそれほど意外なことではなく、形意拳、八卦掌の名人だとて、
「もはや自分には型は必要ない」
と言ったりしてきた。そうしたレベルに入った人は、もはや天地自然を師とするしかない。前人未到の修行的境地を歩いている。
 普通の拳法流派は型を修めて、修め切った上に無形に至るものである。何故なら型こそ始祖開祖から始まり、代々の伝承者たちが磨き伝えてきたその拳法のエッセンスなのであって、それをやらないとなれば何を自流の基礎とすべきかわからなくなる。型という有形のものは流派のエンブレムであると言えよう。太極拳の型を練ることなしに、太極拳独特の戦闘技術が身に付くはずがない、ということである。
 ところが意拳は、いきなり無形の型、名人達人が長い修行の果てに身につけたエッセンスを初心者に伝えようとする。つまりは王向斎は拳法の本質だけを捕らまえて、それを直接ただちに伝授しようとするわけで、入門者たちを拳法というものの根源に最短距離で近付けさせようと試みたのである。そしてそれを具体的にかなりの部分で成功させたことが意拳の驚くべき特色なのである。無形伝授が観念論に過ぎぬものなら、実践で通用するはずがない。武術のリアルにおいては理想論など意味を成さない。やり方が間違っていれば命を落とすだけのことである。しかし王向斎の門下、また弟子たちは多くの強者が排出されており、最新最後の実戦拳法とたたえる人もいる。
 そしてその鍛錬の中核にあるものが、即ち站椿功なのである。意拳に型があるとすれば站椿の静的姿勢がそれにあたる。たいていの拳法にはいくつかの基本功があり、それは拳法習得のための身体的、精神的な基礎を作り、上達のベースとなる大事なものである。野球で言えば、例えばストレッチに始まって、ランニング、ダッシュ、素振り、キャッチボールのようなものである。練習以前の練習であり、これをやっておかないと練習にも参加させてもらえない重要な基本訓練である。レギュラーになりたいなら、言われなくても朝晩やっていて当たり前のことである。それと同じように站椿をはじめとする基本功があるわけだ。基本功で心身を整えつつ型を学んでゆくのが普通のカリキュラムであろう。
 王向斎は基本功から上級の練功法まですべて含めて站椿一本に絞ったといえる。極端な話、健康増進、足腰の強化、脱力法、正姿勢の獲得から、ちょっと上級な気功的訓練、易骨、易筋、洗髄、小周天、大周天、丹田の錬成といった仙丹道の行までを全部、站椿功ひとつやれば済ませられるように作り上げたのはなかろうか。その上、戦闘の基本となる頭部、胴体、手足の動き、呼吸法、直感力、瞬間的判断力までが養われ、そういった本質的で本能的な力を渾元力と呼んで、それがスムーズに発揮されることが修養目的であるとした。それを体内に養っていき、徐々に外に表れるよう繋げていく。たとえば人は熱い物に触れると反射的に凄い速さで手を引っ込めるわけだが、そういった本能的力を拳法に使用するという説明もある。
 次の段階は歩法であり、試力、発力(内気の爆発的発揮。他流の発勁に相当する)等、站椿功で培われた体内感覚やエネルギーを戦闘技法に結びつけてゆき、その現実的な運用法を組み手などをして見に覚えさせてゆく。站椿功で練り上げられた力やエネルギーがあってこそ、その運用法の理解体得が進むのであり、站椿功の積み重ねが足りなければ、理解会得のための力も小さいものにしかならない。
 そしていざ実戦となった場合にその者がどういう動きをするのかは、それぞれの個性に合った動きが自然に表れ、しかしそれもまた站椿功の進み具合が導くのである。形意拳免許皆伝の王向斎の場合は、形意拳の型に沿った動きが表れることが多かったろうと想像できる。こんな複雑で難しい(実は容易にして簡だという)ことを静かに立ちつくしているなかで、練磨養成しているのである。師匠なしで独習するのはやはり困難だろう。 
 站椿功をする身体各部には基本的に六方向の力が作用しており、普通の人は上下、重力の作用反作用くらいしか分からないが、前後左右にもそれはあり、そうした力を矛盾するように用いれば武術に必要な筋力も養われ、通常とは異なる性質を持つ力を使うことができるようになる。そういう特殊な調練を可能にする秘術が、意拳の”意”である。意は意念、意識、イメージであり、想像力が無限であるからには、意による鍛錬、武術動作もまた無限となる理屈である。站椿功を行いながら意念を使ってハイレベルでバラエティ豊かな鍛錬を積むことが可能となるわけである。『易』に「静中動あり、動中静あり」というが、外見は不動でも、身体内部で物凄い質と量の運動が行われている。中国拳法の要訣に「用意不用力」というものがある。「意念を用いて、筋肉力を用いない」、ということらしい。そして意を極めた先には無意、空の技の境地がある。素人からすれば理解の及ばぬ世界である。
 ただ立つだけで如何にして強くなるか。上は、説明不足というより、所詮は自ら鍛錬せねば分からない世界が武術というものであって、筆者の限界であり、誤りがあれば申し訳ない。学校体育のおかげで日本人はスポーツのことは想像がつくが、昨今流行した古武術などのことはほとんど想像もできなくなっている。両者の常識や感覚、体捌きの基本が非常に異なるせいであり、だからといって武術を学校で均質に教えるなど不可能なのである。王向斎の創始した意拳とは筆者の理解ではこのようであり、その武術的特徴も習得した人の数だけであり、闘う時にはその時最も適した攻撃・防禦の動作が自然に勝手に発せられる。意拳の技には他の拳法のような格好のいい技名がつけられてはいない。無形ゆえに技なく、名も無いわけであり、老荘的な趣があると言ってよいが、その闘いぶりが無駄が一切存在しない、恐ろしく野生的なものである。

◆◆◆
 1949年、蒋介石の勢力が台湾に都落ちし、ようやく何十年にもわたった中国の内戦が終わった。最終的勝利を掴んだ毛沢東による共産主義の新中国が始まる。王向斎は兵士や指揮官として戦争にかかわることなく、弟子たちと武術的研究、站椿療法の研究に没頭することができた。王向斎がどういう政治的見解を持っていたかは分からない。50年代からは医療保健機関の要請を受け、意念站椿養生功をひろく指導し、その方面でも著名の人となった。意拳の站椿功は中国五大気功の一つと認定された。
 61年(71歳)に気功医療学術シンポジウムに出席したおりには意拳の健身舞踊(驚蛇舞)の実演を行い、会場の床が振動するほどで、その健在を知らしめたものの、夫人を亡くしてひどく気落ちし、翌年に病床に着き、63年7月12日に没した。筆者は王向斎が文化大革命の惨禍に巻き込まれ、みじめな晩年を過ごした可能性を避けることができたことを良しとしたいと思う。

                                        酒見賢一

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