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 諏訪大社〜松本城〜小諸〜上野村

日    程   2012年(平成24年)3月17日(土)〜 3月18日(日)
 家族とドライブに行ってきました。
   
   
諏訪大社 上宮 前宮。まだ、ここは茅野市。結構しょぼかったが、歴史を感じる。以下、ネットより。

本宮の東約2キロ、中央線茅野駅から車で約5分の所に鎮座します。境内の大半を占める広場を神原(ごうばら)と言い、大祝の居館である神殿(ごうどの)と 附属する沢山の建物が軒を連ね、上社の祭祀の中心地でしたが、室町時代の中葉に神殿が移転され、多くの建物が消滅し、現在では祭典に必要な建物だけになりました。

  神原の中心をなし諏訪大神の幸御魂、奇御魂を祀る内御玉殿(うちみたまでん)は一部に天正十三年の旧殿の材を使い、昭和七年の築造です。隣の十間廊はその奥行から付いた名称で神原廊とも言い、上社最大の神事御頭祭はこの上段に神輿を安置して執行します。
前宮御本殿は内御玉殿から200m程上段で、古くは神殿に附属したお社でした。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。現在の社殿は昭和七年伊勢の神宮の御用材を以て建られたものです 
   
   
諏訪市内の高島城にも立ち寄った。以下、ネット。
 日根野高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。完成当時は、城のまわりは湖水と湿地に囲まれ、あたかも諏訪湖中に浮かぶようであったので、別名「諏訪の浮城」と呼ばれました。
 城の北側には城下町(兼甲州道中上諏訪宿)が設けられ、城下町から城までは一本の道しかありませんでした。城は、北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態です。
 本丸には三層三階の望楼型天守が建てられましたが、天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく?葺きだったことも、高島城の大きな特徴です。湖畔の軟弱地盤で重い瓦が使えなかったからとか、寒冷地である諏訪では瓦は凍み割れてしまうからとか言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。 
   
諏訪大社 下社 秋の宮 

JR中央線下諏訪駅の東北約1km、春宮からも東へほぼ1kmの地点で、旧中仙道と甲州街道の分岐点の要所に鎮座しています。 鳥居を入ってまず目に付く正面の大きな木は根入の杉と呼ばれ樹令は約八百年の御神木です。

身長1.70m、青銅製では日本一と言われる狛犬を両脇に従えた神楽殿は三方切妻造りで天保六年(1835)立川和四郎二代目富昌の作です。御社殿は神楽殿の奥で、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並びます。これ等の建物は江戸時代中期の絵図面では帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されており、現在の建物は安永十年(1781)春に立川和四郎初代 富棟の棟梁で落成しました。

拝殿奥の神明造りの建物は宝殿で、新しい方を神殿、古い方を権殿と呼び、寅年と申年毎に左右の遷座祭を行います。当社の宝殿は上社、下社共に平素二殿並んでいます。室町時代の記録では新築後六年間雨風に晒し清めて御遷座をなし、直ちに旧殿を解体新築という形式だったようですが、いつしかこれが逆になり、祭典の直前に旧殿を建直して新殿に御遷座するようになりました。

宝殿の奥が御神座とも相殿とも言われ、御神木をお祀りする下社の最も重要な場所です。上社の神体山に対し下社は御神木を御神体として拝し、古代祭祀の形式を今に残しております。

 
   
   念願の松本城に行く。以下ネットから。

創始

松本城は、戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりです。世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護・小笠原氏は館を東山麓の林に移します。その家臣らは林城を取り囲むように、支城を構え守りを固めました。深志城もこの頃、林城の前面を固めるために造られました。
その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。その後、天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めたのです。

天守の築造

豊臣秀吉は、天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。このとき松本城主小笠原秀政が家康に従い下総へ移ると、石川数正・康長父子が代わって入り、城と城下町の整備を進め、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。
天守の築造年代は文禄2年から3年(1593〜4)と考えられています。

なぜ黒い?

石川氏は豊臣秀吉の信頼の厚い武将でした。秀吉の大坂城は黒で統一されていました。松本城が黒いのは、石川氏の秀吉への忠誠のしるしと思われます。また、松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定した戦うための漆黒の天守の典型として、現存する唯一の城です。ちなみに関ヶ原の戦い以降は、姫路城など白亜の天守が築造されました。

松本城 天守の図

連結複合式天守

天守のうち、大天守・渡櫓・乾小天守のまとまりを連結式天守と呼び、戦いの多い時代に造られたため、石落しや狭間が多く、窓は少なく、守りやすくなっています。
大天守・辰巳附櫓・月見櫓のまとまりは複合式天守と呼び、平和な時代になってできたため、戦うための備えがありません。二つの形式を合わせ連結複合式と呼ばれます。

武田深志攻めの図

武田信玄の深志攻め

天文17年(1548)小笠原長時は武田信玄と塩尻峠で戦い、敗れました。信玄は、天文19年(1550)深志(松本)に攻め込みました。武田軍の勢いに小笠原方の兵は戦力を喪失し武田方に従いました。
小笠原長時は林城を脱出し、信濃国北部の有力な武将・村上義清を頼り松本を去ったのです。

 
   
   
松本市内。歴史が結構残っているが、空襲でやられたのか、昔の街並みはない。 
   
上野村の今日の宿、まほーばに着く。天空のスカイブリッジは怖くて渡れなかった。
 さて、コテージから山の方に金毘羅道という道が伸びている。長男と登ってみる。 
   
   
拾七丁目、しかも天保年間。1830〜1840年代だから、その時代からこの道はあったのだろう。 
   
   
   
   
岩場の間に小さな祠があった。そこよりも上に山道が伸びていたが、日も暮れてきたので、ここで断念。 右側の写真は、おそらく登ったであろうピーク。
 

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