Toruトップ >  旅メニュー

 館城跡

日    程   2012年(平成24年)4月22日(日)
 江差で泊まった後、厚沢部町の館城あとにいってみることに。
   
   
 
   
   
   
館城について(ホームページより抜粋)

  戊辰戦争が奥州に及んだ明治元年(1868)、松前藩主18世徳広は松前城の海面に対する防備が不備であることを心配して、 一期有事の避難地に内定していたこの地に新城を築いて移ることとした。また、藩の内乱、拓地勧農などの藩内諸事情もあったとも云われる。
築城は突貫工事で9月1日に着手し、10月25日に完成したというが、未完成であったとも云われる。
 館城は城丘の丘陵地にあり、南方は深山を蔽い、濁川、糠野川を三方にめぐらし要害に最も適した所であった。
 明治元年(1868)10月26日、五稜郭を占領した徳川脱走軍が松前城に迫ると、 藩主徳広は松前城を遁れ、 夫人及び男子3児、その他藩士300人を従え新城(館城)に移った。11月5日松前城を占領した徳川脱走軍は、 11月15日館城を攻撃し、16日落城した。藩主徳広はその内室子息と共に近臣に護られ熊石に逃れた。
館城は着工後わずか75日で陥落した城で、松前藩最後の城である。
尚、明治2年(1869)徳広の長男兼広が松前城に戻り、 館藩と改称した。
   
 日露戦争から帰った兵士を迎える凱旋門があったそうだ。 大野駅前ががらっと変わっている。 
 

  旅メニューに戻る