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アイヌ民族文化祭ツアー

2018年(平成30年)10月19日(金)

 ノツカマフ1・2号チャシ、ヲンネモトチャシ、納沙布岬・北方館、根室市歴史と自然資料館〜食事(優遊居)

 本日は、このツアーに動員がかかって参加してきた。二つのチャシは、個人的に先週日曜日に走って行ったばかりだったが、また、バスツアーで参加。今回は学芸員等のマニアックな説明があったのと、天候が素晴らしかったので、よしとしよう。
 以下、学芸員さんの説明を転載。

【チャシについて】
 チャシ跡は昭和58年に24か所まとめて指定。チャシは全道に500か所、うち根室が32か所、24か所を指定。根室だけでなく、釧路、浦幌、新ひだかなどにも存在。国の指定は根室が先駆け。 
 チャシの目的は、砦や祭祀場、見張り場、チャランケ等多目的と考えられている。
 作成年代は不明な点が多いが、16〜18世紀と幅を持たしている。根室のチャシの特徴は、大規模で保存状態良好、そして景観が良い特徴がある。
 チャシは海に面した崖の上、眺望が良いところに立地。
 松浦武四郎もこの地を訪問し、地元の人について回っている。彼の著書によると、アイヌの人に付いてきて、アイヌの人からここは誰の墓等々とこの辺にはお墓がずっとあったようだ。松浦武四郎の本は学ぶところが多い。
 全国の砦やお城等を対象とする名城100選が平成18年につくられ、スタンプラリーが大当たり、今日も我々以外にも50人のツアーが来ている。年間3000人も来訪。
 
【ノツカマフチャシ】
 ノツカマフの意味は、「岬の上にあるところ」という意味。現在根室港が発展しているが、江戸自体のそれ以前、霧多布が中心の時はこちらが拓けていた。アイヌの首長ツキノエが、1778年にロシアのシャバーリン、オチェレデンを連れてきて交易をおこなった。ごらんのとおり国後島や知床半島、歯舞諸島を一望できる地。クナシリメナシの戦は和人のアイヌに対する過酷な扱いに対する反乱であった。当時アイヌは、ニシンから粕を生産していたが、ひどい労働実態であり、アイヌ人の我慢が切れたとというのが実態。71人の和人が標津、羅臼、国後で殺害された。その後、松前藩の鎮圧隊が組織され派遣されるが、仲裁の結果首謀者である37人を差し出して決着、このあたりの海岸で処刑された。アイヌ人は37人のイチャルパをあの小さな岩で実施しているが、71人の和人の慰霊も併せて実施している。
 チャシを発掘していないのでよくわからないが、眺めがよいこの地でチャランケを行う特別な場所であったと考えられる。

【トーサムポロ湖】
 トーサムポロ湖は現在は寂れた漁村であるが、8000年以上前から居住していた。1500年前の竪穴住居跡や貝塚、チセの跡が湖の周辺から見つかっている。貝塚はただの貝殻の捨て場ではない。当時使っていた道具や灰などもあり、当時の生活の様子もわかる。チセ跡は千歳辺りによく見る刈るが、ここには道東で初めてチセの跡がみつかった。発掘の結果1739年の樽前山噴火の灰に杭を打っているので、当時の住居だったことがわかる。クナシリ・メナシの戦が1789年なので、それ以前の村であったことがわかる。松浦武四郎もこの地を訪問しており、朝起きてチセを出ると熊と鉢合わせした逸話もある。

【ヲンネモトチャシ】
 ノツカマフチャシが濠を掘っていいるのに対し、ヲンネモトチャシは盛土。似たような事例は釧路のモシリア遺跡がある。盛土をして上を平らにし、三角形の突き出しがある古いタイプ。この形はアイヌ文化の前のオホーツク文化の影響を強く受けている。この近くにも7〜9世紀頃の竪穴住居跡が見つかっており、オホーツク文化からアイヌ文化に変わるころ。この地は歯舞諸島も近く、知床や国後島も見渡せる地。これだけの土木工事を鉄が乏しい中で実施したことは、当時の人の組織力や経済力も相当であったろうと想像される。

【和人殉難碑】
 クナシリ・メナシの戦で殺された71人の和人を弔った墓。和人による和人のための墓なので、凶悪なアイヌと記されている。実際には和人のアイヌ人に対する非道な扱いにアイヌ人が我慢できなくなって起こされたもの。碑自体は1812年に建てられており、事件の23年後に建てられた。この碑は明治時代に珸瑤瑁の海に上がったというので、不思議である。

【オホーツク海側にチャシが多い理由】
 根室半島の太平洋側にはチャシが少なく(なお、浜中にはチャシあり)、オホーツク海側に多い。この理由は太平洋側が海が荒く、川も少ないことがある。一方、オホーツク海側には、トーサムポロ沼や風連湖などの湖沼や川が多く、食料の確保が容易なことがある。
 1845年に松浦武四郎は根室に滞在し、納沙布岬で一夜を過ごした。宿は和人の船で寝たようであるが、おそらく武四郎の旅の話題で夜は盛り上がったのであろう。そして、そこから船を借りて歯舞に行ったところ、志発島にナマコ漁の出稼ぎに行っているアイヌ人と交流している話が書いてある。当時は、新月のお祭りも描かれている。
 根室半島には戦跡としてトーチカも残っている。このトーチカを作ったのは大山茂。大山巌元帥の息子で、もともとは考古学者であったが、のちに軍隊に入り、日記を残しており、それも面白い。
 標津町の樺山のチャシは大きいが、これは戦時中、高射砲の陣地になっている。チャフコロフイナチャシも戦時中使用した跡がみられるなど、全道のチャシ跡は戦争に活用されている場合も多い。

【桂木方面の馬牧場】
 ここはもともと海軍の飛行場があったところ。根室第一飛行場と呼ばれていた。歴史と自然の資料館も海軍の通信基地跡を利用している。
(転載終了)

 最後は、歴史と自然資料館を訪問したが、アイヌ民族文化祭関連ミニ企画展「千島アイヌの民族・考古資料」展が開催されていた。説明によると次のとおり。

(転載はじめ)
 千島アイヌは得撫島から、占守島、カムチャッカ半島南部に居住していた。そのルーツは15世紀後半ごろまでさかのぼるとされている。ロシア文化の影響も受けながら狩猟や漁労中心の生活をしていた。
 1875年に日本とロシアの間で締結された樺太千島交換条約により、千島列島が日本領となったことで、明治政府は千島アイヌへの生活支援を行うようになるが、そのコスト軽減のため、1884年に97名の千島アイヌを色丹島へ強制移住させた。
 移住後は農業など本来の生業と異なる生活を強いられ、病死者が多発した。太平洋戦争後は旧ソ連に色丹島を追われ散り散りになり、現在、言語や伝統文化は継承されていない。
 
<内耳土器>
 土器の内側に吊り下げ用の「耳」がつくことから名づけられた。本州の内耳鉄鍋を模したとされ、鉄鍋が入手困難なことから、千島アイヌや樺太アイヌは内耳土器を盛んに用いた。出土地:占守島中川

<容器(テンキ)>
 千島アイヌ独特のハマニンニクを用い、コイリング(巻編)技法により編み上げたもおの。色丹島の千島アイヌがタバコ入れとして制作したもの。収集年1934(昭和9年) 収集地:色丹島斜古丹

(転載終了)

 個人的には、根室市の古い地図を見つけ、遊郭や碓氷酒造のほかにもう一つ酒蔵があったこと、花咲港に半端ないほど船が係留されている写真が面白かった。
   
   
 
 
 
 
 
 

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