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令和4年(2022)10月9日(日)
草津宿〜大津宿(石山)

 歩いた距離13.4km 3時間37分
 早朝に三雲駅から草津まで走ったので、10時頃から荷物を背負って草津宿から大津宿まで歩くことにする。今日は雨天予報なのでカッパをいつでも着れるように、傘を準備して歩き始める。ホテルは草津駅前で草津宿自体の中にある。旧街道は商店街(1)で中山道の説明板があった。トンネル(2)をくぐると中山道と東海道の分岐点の道標(3、4)があった。1816年に全国の問屋筋の寄進によって建立されたものだそうだ。
 草津宿の中心部に到着。草津歴史街道という説明板(5)があり、この草津宿には、本陣・脇本陣、多くの社寺が建ち並び、70件を70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町家があったそうだ。渋い宿の看板(6、7)があり本陣跡に(8、9)に到着。内部は見学ができ(10、11、12)、昔の本陣の内部の様子がよくわかった。
 草津宿の近くに常善寺(13、14)。創建は735年で本尊の阿弥陀如来は重要文化財だそうだ。関ケ原の戦いの後に、宿泊したそうだ。そして古川酒造(15)、道灌という銘柄のお酒を醸造している。立木神社は称徳天皇の時代767年、武甕槌命が御祭神である(16、17)。川(18)を渡り、天井川という酒蔵(19)をすぎると、矢倉立場であった(20、21)である。立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが建てられ、旅人が杖を立てて休んだことから立場という名前が付いた。この辺は南草津駅の近くである(22)。
 矢倉立場の野路の一里塚(23)、教善寺(24)を通っていく。私有地で立ち入りであるが(25)、平清宗(1170〜1185)の墓(26)があった。平安後期の公家平宗盛の長男で源平の合戦により父宗盛とともに、壇ノ浦の戦いで生け捕りとなる吾妻鏡に記載されているそうだ。神宮神社(27)、野路の史跡の説明板(28)の近くに野路の玉川(29)があった。この辺は平安期から鎌倉時代にかけての東海道の宿駅として栄え、源平争乱の時代多くの武将の宿人となった場所だそうだ。
 弁天池には真ん中に島(30)があり、橋を渡って(31)祠(32)に参る。月輪には明治天皇御東遷の碑と新田開発発祥の地(33)があり、水が干上がっているが東海道立場跡の碑(34)、少し寄り道であるが山の神の遺跡(35)があった。7世紀頃の窯跡など工房があったようだ。
 一里塚(36)を過ぎ、平成22年に建てられた新しい道標(37)には、4方向が示されていた。江戸日本橋、三条大橋のほか、大萱港常夜灯と旧朝倉道である。
 大江の街に入り、文化財マップ(38)を見ると、東海道は左折であるが、真っすぐに行くと若松神社があり、その周りに古墳や城跡が記載されているので、立ち寄ってみると、神社以外(39)は発見できなかった。
 街道に戻り、また街道を右折せずに、近江国庁あと遺跡に向かうが、みつけられず彷徨って街道に戻る。琵琶湖を渡る前に日本武尊を祀る近江国一の宮の建部大社を訪問(40〜42)。中々大きな神社であった。たにし飴本舗(43)は閉まっている。この辺の地名は神領(44)と呼ばれていて、いよいよ琵琶湖の瀬田唐橋を渡る(45〜48)。瀬田橋を制する者は天下を制するという説明板があり、壬申の乱や源義経と木曽義仲の戦い、本能寺の変の後明智光秀がこの橋を渡れず安土城進撃ができなかったことなどが説明されており、なるほどと思い歩みを進める。
 瀬田唐橋を渡ると大津市街である。瓦店(49)と古い建物(50)を見て、京阪電車の踏切(51)を渡り右折して、石山駅のところで雨が降ってきたので、京阪電車にとって宿に向かう。石山駅には松尾芭蕉の像(52)があった。

 
 
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