令和5年(2023)11月11日(土)
16.6km 2時間33分
イオン釧路(釧路町)~道道(桂恋武佐通)~旧日本軍戦跡 釧路電探(レーダー)基地跡~市道久寿里橋通~鶴ヶ岱チャランケ砦跡~松浦武四郎蝦夷地探検像~人道の戦士山本多助の碑~鳥取県士族移住の地~共栄稲荷神社
吉方の釧路へ。まだ訪問したことがない史跡を走って訪問する。イオン釧路に車を停めて、国道44号線を走り右折して武佐の方へ登って走っていく。武修館高校を過ぎて大きなアンテナを過ぎて、笹原の山の上に「旧日本軍戦跡 釧路電探(レーダー)基地跡」があった。円筒らしきものが三つあり、台形上の建物の海側の反対の下の方に入口らしいものがあった。風が強いので早々に退散する。
道を少し戻って、春採湖の方へ走っていくと、春採湖の湖畔に鶴ヶ岱チャランケ砦跡があった。説明板を転載。
【ハルトリチャランケチャシ跡】
このチャシは、春採湖に突きだした地形を利用してつくられている。チャランケは裁判・談判を意味するアイヌ語だが、この付近はトーモシリ(湖の中にある島)、イキタラウシ(熊笹が沢山生えている場所)などと呼ばれていた。チャシ頂部の標高は12mで、北川を除き急斜面で湖に面している。壕は湖に対して弧状に開くものが2条あり、壕内側の規模は南北15m、東西30mを計測する。東側に竪穴住居跡7個が確認できるほか、南側には船着き場があったと言われている。
次に幣舞橋近くの松浦武四郎蝦夷地探検像を訪問する。この辺は何回も通っているが、この像だけは訪問できずにいた。
【松浦武四郎蝦夷地探検像】・・・北海道及び釧路の名付親 松浦武四郎は幕末に未開の地蝦夷探検の急務を説き一身を賭して苦難と闘いアイヌ民族の協力を得て東西蝦夷山川地理取調團等蝦夷地開拓計劃の基礎資料を作成し為政者に供して諸種の献策を行いその促進をはかる 安政五年(1858年)阿寒国立公園地帯を探査して久摺日誌を記述せしより百年目に當りクスリ酋長メンカクシの砦跡たりしヌサウシチャシコツに像を建て北海道開發先覚者阿寒の父として永えに顕彰せんとするものである
昭和三十三年(1958年)阿寒国立公園観光協会 釧路市公民館長 丹葉節郎撰北海道学芸大学教授 山口野妙書
次に北大通を北上する。とある店の前に「人道の戦士 山本多助の碑」があった。裏面は見ることができないが、隣に写真が展示されていた。もともとは鶴居村にあったらしい。
【人道の戦士 山本多助の碑】・・・(裏面)碑文 アイヌ文化の傑れた伝承者であり 気骨のあるかけがえのない人 山本多助翁をたたえ われらユネスコ協会は エカシの友 丹葉節郎氏の発意により ここくしろ国際ユネスコ村にこの碑を建立するものである。
釧路駅の地下道を通って北口のすぐのところの「鳥取県士族移住の地」を訪問した。
【(表面)鳥取県士族移住之地】・・・左記のとおり刻まれその下に「明治17年18年にここから西の方へ移住してきました 戸数105戸 人数513人 昭和59年6月 池田徳眞書」。裏面にも刻まれているが、特筆すべき事項はないので割愛。
最後に共栄稲荷神社を訪問。ここの近くの先頭によく来たのだが、この神社には初めてお参り。報恩碑があったので、概略を転載。「大正8年初代宮司鈴木新次郎が京都伏見稲荷大社から御祭神を歓請。鳥取村一番組に稲荷社を創始。昭和9年現在地に社殿を造営。昭和53年現在の社殿建立・・・。」
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