令和5年(2023)10月29日(日)
音更町駒場に向かう途中、東士幌神社のところに、数多くの石碑等を発見。
「東士幌開拓百年碑 拓魂悠久 音更町長 山口武敏書」この石碑の脇の説明板には次のとおり刻まれていた。「碑文 十勝大平原のほぼ中央 東になだらかな長流枝山を望み 士幌川が走り、西に日高連峰を遠くに仰ぐ伊忽保川が清流をたたえる 気候温暖 地味肥沃なこの地に 昼なお暗い大森林の中 十勝川および士幌 伊忽保両河川の川辺づたいに 鹿の足跡を頼りつつ この地に辿りつき 馬もいなかった頃 桑一丁開墾が始められて百年を閲す この祖先の苦労を偲び 讃え 心からなる敬意を捧げ これを永く児孫に伝承する為 ここに この碑を建立する 希わくば子々孫々の上に 永久なる幸と栄光あれ 平成十一年二月吉日 (以下略)」
「開拓之碑 昭和50年4月 東士幌開基77周年記念」 裏面には、判然としないが次のとおり刻まれていた。「明治33年3月帯広方面より士幌川沼ひに鹿の歩いた道を荷物を背負い野宿をしながらやってきた一家 東士幌を始めて踏んだ人は 岐阜県人田中倉吉氏であった 樹林の中に掘立小屋で雨露をしのぎなら此の地の開拓がはじまったのである(以下略)」
「頌徳碑」 表面の上部には漢文で以下のように刻まれている。「紀元二千六百年村社東士幌神社創立二十周年奉祝紀念ノ為メ神社創立エ際シ境内敷地及基本財産造成二盡力セラレタル芳名ヲ記シ永久二之ヲ顕彰ス」碑文の下には基本財産である土地の面積や氏名などが刻まれていた。
「東士幌競馬(白川競馬)」 標題のとおり金属の標柱があり其の隣に金属の説明板があった。概略は次のとおり。「十勝の開拓にとってドサンコは原野の伐根、農耕馬、荷物、人を運び、後には軍馬への徴用など開拓農民にとって寝食をともにする家族同然の重要な役割を果たしてきた。明治41年から東士幌神社の秋季祭典の余興として草競馬が始まり、創設者白川勝太郎の名にちなんで白川競馬と呼ばれた。当初は農耕馬を持ち寄って競っていたが、馬場が狭いためいつしか思いそりを引くばんえいのレースに変わった。」
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