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中国古今人物論15 「王向斎」(酒見賢一)より

 
<その一>

 筆者が王向斎の名を知ったのは気功についていろいろ調べていた時である。その時には王向斎が中国武術史上屈指の達人だなどということはまったく知らなかった。

◆◆◆

 中国における気の思想は極めて古く、非常に後半で理解するのに厄介なものである。西洋科学的にいえば気などというエネルギーだか不明なものは無いとしか言い様がなく、気が流れているとされる経絡も解剖学的には身体のどこにもないわけで、気の貯蔵庫たる臍下丹田があるとされる部分には小腸や子宮があるのみである。気のあれこれは迷信、ともすれば神秘主義に傾きやすいのだが、しかし同時に各時代の碩学が立てた理論と二千年以上にわたる、他分野に跨った経験実践的データが蓄積されていることが、気の存在を完全に否定させない。二十世紀の終盤頃、中国や日本で気の正体を解明しようとする実験が行われ、手から遠赤外線が出ているとか、自律訓練法的な生理反応であるとか、まあいろいろな説があるが科学者を納得させられるものは出ていないのが実情だ。
 実際問題、気が有るのか無いのか、有るとしたら実態は何なのかという、重要だが、現在の科学では測り難い存在は、それが何だか分からないにせよ、有るという仮説のもとに論を進めるのが賢いのではないか。現実に気が関与するという現象は多数存在していて、その説明に気が存在すると仮定すると、例えば漢方医学や各種の身体運動現象に合理的、シンプルな説明が可能となると、気が存在しないと仮定すると、いろんな科学分野から個別に理論を引っ張って来なければならなくなり錯綜し、しかも気の現象のトータルな説明はまずできない。気が虚妄だとなると中国思想とその文化の何割かが根拠を喪失する。科学が仮説から始まるものだが、最もシンプルであり現象を合理的総合的に説明できる仮説がよい仮説であり、電磁気がそうであったように、それが概ね定説となる。
 不謹慎な言い方をすれば、気はあると認めたほうが面白い。いろいろな人の役に立っているようでもあるし(悪質な詐欺の役に立っていることもある)。気で人を吹っ飛ばすというもの超能力的なものではなく、一定の条件下で何らかのメカニズムが働いていると考え、それは人間の生理を応用しているのだろう、といったところである。気の力で無生物、例えば薄紙を浮かせたり、飛ばしたりする気功師の話は聞いたことがない。
 話を戻せば気功であるが、気功という言葉は意外に新しく、ほぼ現代中国語である。気功とは気の功夫(鍛錬)という意味であり、自ら訓練して心身に気を充実させ、コントロールする行法である。昔は導引や内功と呼ばれており、動作と呼吸を合わせ行う体操のようなものであった。はじめソ連流の科学主義をもてはやした新中国ではあったが、気を否定するかしないかは賛否両論、ぎりぎりのところであった。気は中国の人々にとり、あまりにも身近なものであったのだろう。科学国となってもそう簡単に手放せるものではなかった。結果として医療で言えば中医(漢方)と西洋医学は併置した。また、文革の一時期を除いて、中共政府の指導者層は西医よりも鍼灸治療師や気功師を好む人が多かったりする。気を疾病者に照射する外気功も、手かざし療法的で、科学的と言うには程遠いものだが、これも二十世紀の半ば過ぎに生まれたものである。
 民間に伝わっていた導引内功にはピンからキリまであって、いかがわしいまじないなどのインチキも多かったが、一部の研究者がその中から医療価値の高いものを選りすぐって検証し、気功療法の基盤をつくることもした。現世現実主義といわれる中国人が、「気は存在し、故に功夫することが出来、実に有効なものである」とお墨付きをくだしただろう。気の実体が解明不能でも、活発なる研究は出来る。
 機構の淵源を辿れば、悠久というほかないが、仙人に各種不老長生の術、道教門派の導引行気、医家の鍼灸按摩や薬餌法、仏教の禅、インドやチベットから流入したヨガや密教の行法など、じつに多くのものが時には混淆しつつ様々な人たちによて伝えられた。文献として残っている気の行法がそのごく一部に過ぎない。これらは日本にもおおいに影響を及ぼした。
 そして武術家たちも気功の極めて有力な伝承者であった。しかも現実に生き死にに直面するのが当然であった武術家であるから、無効なもの曖昧なもの無駄なものは徹底的に削ぎ落としていった。今はそれを硬気功、武術気功と読んでおり、汎く太極拳も含まれ、もちろん医療気功と対立するものではない。仙道や道教の気功と原理は同じなのであろうが、ともすれば秘教的神秘的に伝聞されるそれらに比べ、武術家の気功はざっくりとわかりやすいのが特徴である。ただし頭で分かりやすいのではなく、身体で分かりやすいということだが、気功である以上それは仕方あるまい。心身による具体的体験なくば、気はいつまでたっても理解不能なものなのだ。
 気功の目的はとどのつまり養生衛生である。気の理論を根幹としたトレーニングを積んで、心身をより健康に、強くするということであり、究極には不老長生といったことも含まれていてよい。有名な気功法としては、戦国時代から存在する導引が『荘子』にも記述があり、三国時代の華佗の創案による「五禽戯」も導引の一法である。これらは道家、仙道家が発展させていった。よく洗練された「八段錦」などはその成果であろう。医書「黄帝内経」には原理的なことが既に記述されている。一方、達磨大師が少林寺に伝えたとされる「易筋経」「洗髄経」はインド系の強健法と中国古来の気功が結びついたものという説が有力である。時代がくだるにつれてその種の行法は無数に増えてゆき、すべてを把握するのは不可能であろうが、根底に気の存在があることだけは共通である。現代中国では1950年台に劉貴珍が研究してまとめた「内養功」が気功療法のべーすとなっている。
 現在、中国の公園に早朝にゆくと、太極拳を行う人もいれば、一見、何をしているのか分からないようなものまで、多くの人が気功を楽しんでいるのを見ることができる。
◆◆◆
 さて筆者が知る限り最もシンプルで、重病人以外誰にでも簡単に行える気功法が、たんとう站椿功である。站椿功は名称は異なれどほとんどすべての伝統的中国拳法がそれぞれの形で基本鍛錬に取り入れているものである。もちろん武術専用の気功というわけではなく、いつ誰が発明したかは不明だが、相当昔に遡るだろう。
 武術と道教、先導は古くより密接な関係があったようで、その開祖が仙人だったりするのだが、とにかくその行法には共通するものがある。ただ武術家の中には気功を嫌う人があり、自流の鍛錬法を気功とは別物とする傾向もある。
 王向斎(1890〜1963)は意拳という新拳法の創始者である。長年にわたる武術修行の結果、数ある基本功の中から站椿功をピックアップし、極めて考え抜かれ、洗練された王式の站椿功を完成させた。そして站椿功の修練がアルファでありオメガであるという異色の拳法である意拳(大成拳)を開いたのであった。詳しくは後に述べるが、意拳は普通の流派では金銀宝玉にも比される套路(型)をばっさりと切り捨てている。型がない。ただ站椿功を行うことが拳法の真髄に至る最短の道であるという思い切りの良すぎる拳理を持つ。しかも王一門が実践でも強かったものだから、非常識な拳法とはいえその高度な武術性は認めざるを得なかった。
 簡単に站椿功の説明をしてみよう。站とは立つの意、椿は杭の意、站椿とは「ただ某杭や木の如く地に立つ」ということである。幾つかの立ち方があるが、最も基本的な掌(実際はこれに手ヘンが追加)抱椿は足を肩幅にして立ち、腰を落とし膝を適度に曲げ、手と腕は大きな風船を抱くように胸の高さに上げ、体幹から頭は真っ直ぐにする。足先にやや重心がかかるようにする。呼吸はごく自然に行う。そしてそのまま立ち続ける。外から見る限りただこれだけである。その姿勢から片足を前に出して、身体を右か左にする立ち方を技撃椿(矛盾椿)といって、やや構えたような感じになるが、これも静止したまま立ち続けるだけである。幾つかのバリエーションがあり、それぞれ違う課題や効能があるとする。
 立位のまま静止し、内観し、気を巡らせることから、日本では立禅とも呼ばれる。修行者は一日に一時間から一時間半、休まず続けることを要求される。王向斎は、練習時間の三分の二を站椿にあて、残りを歩法や氣や力を動かす練習に当てるのが、自らの経験上から適当であるという。仮にレッスンタイムが一時間半あるとすれば、一時間はじっくりと站椿を行い、残り三十分で動き方や推手(組手)の稽古をするということだ。同じく養生を課題とする太極拳とはだいぶ違う。
 実際、やってみるとすぐに分かるが、上げた腕がだるくなり、じきに曲げた膝が震え始め、五、六分もすれば苦しくなってくるわけだが、やっていることはシンプルそのものであり、高等気功にありがちな面倒な動作や面倒な注文は一切ない。ずぶの初心者も一通り説明されれば行える易にして簡なる行法である。地味で辛い業法にとても長く続けられそうにないと思えるが、師の教えに従い真面目に続けていると、心身の不快感は徐々に無くなり、じつに爽やかな力強い気分で一時間くらい平然とやれるようになるから案ずることはない。一度、站椿功の爽快さ気持ちのよさを味あえばしめたもの、毎日やらずにはいられなくなる。まあそうでなければ武術練功はともかく健康としては失敗であろう。
 とはいえ、最初は、立って病気が治るものと人々で治病面で疑問を持たれたし、武術面でも、これで闘いに強くなるとはとても思われないと、「王向斎は我々に拳術を教えたくないのだ。だからひたすら立たせるばかりなのだ」と、多くの入門者が逃げ出したくなる気持ちは良くわかる。しかし去らずに耐えて三年、五年と王向斎に学び続けた者はなんだか知らぬうちに強くなっていることに気付き、十年以上の鍛錬を経ると、ようやく初めて王向斎の真意、意拳のカリキュラムの優秀さ、奥深さに気づくことになる。それと同時進行で自分がどんどん病気知らずになり、健康そのものであることにも気付くのである。王向斎曰く、「わたしは既に七十を越え、物は何もないが健康だけは誇れるのである。」壮年期から晩年にかけての王向斎は生理学、解剖学、その他の医学研究に余念が無く、弟子たちと站椿功の治療効果、病気予防効果を理論的に検証してゆき、保険治療目的の「意念養生健身功」を多くの人に指導した。重病で立式站椿が出来ない人のために、座式、臥式、補助功なども整備した。站椿功を主とした全体的治病健康法と言えよう。
 「気功(站椿功)はなんら神秘的なものではない。人が病むのはつまるところ臓腑の機能が平衡を失うからである。站椿功の原理は人体のあらゆるバランスを調整するとともに、平衡機能を調整するとともに、平衡機能を増強させることによって治病健身に導くことにある」。「養生と拳術はひとつのものである。自分の平衡を保つ力さえ養えれば、あとは実際の状況に応じて本能的に技を発すればよい。」と言う。
 健身のための站椿功は武術站椿功と別なものではなく、むしろ健身站椿功は武術站椿功の基である。武術における気功とは何か。それは自らを強健にし、あらゆる病害に防ぎ勝ち、その深い健康があってこそ敵手を完全に制することが可能となる。不健康な者は武術を学ぶことができず、また気功で身体を壊す武術家はその練功に重大な間違いがある。病に殺されては武術家としてつらい。
 一定の姿勢でじっと立ち続ける運動というと、一般的な運動のイメージからすれば運動ではないかも知れないが、実に立派な全身運動となっている。樹木植物が不動の中で活発な新陳代謝を行っていることに比される。しかし站椿においては樹木的でありながら、必要とあらば電光石火のはやさで動けなくては意味がない。それを可能にするのが意識でありバランス調整である。見かけは単純だが、少し奥に踏み込むと静止状態の中で無数のバランス調整を取るための無数の運動が常に行われていることが分かり、站椿功はそれを意識的に鍛錬する内功である。
 たとえばマラソンランナーは巨大なエネルギーを費い、疲労を蓄積させながら走っているわけだが、同時に身体は疲労回復中でもある。エネルギー消費量が大きく回復量が小さく間に合わないから、バランスが悪いという言い方も出来る。これが疲労の量と回復の量、運動の量と休息の量がバランスして同じか、回復の量がやや勝っていればどうか。疲れることがなく、運動すればするほど元気になる理屈である。
 站椿功の秘訣は放しょう(上が「髪」、下が「松」)にある。放しょうはリラックスと訳せるが、たんなる弛緩ではなく、緊張とバランスした弛緩であり、交感神経と副交感神経が同量に拮抗して興奮している状態である。よく疲労しなければよき休息は得られないのと同様、きちんと緊張できなければ、よく弛緩することはできない。緊張がなく弛緩休息している状態はたんなるだらだらである、その逆は単なる異常興奮であって、不均衡の害、いずれも健康にいいはずはない。そういう不自然な状態を改善するためにあの静止した運動、站椿功のフォームが必要なのである。中枢神経、全身の筋肉、関節、血液循環、新陳代謝のほぼ全てにおいて良好なバランスを取らせ、全体に休息と調整を与えるための最も有効な手段として、王向斎は自ら研究し改革した站椿功をつよく提供したのである。 
 近代中国の武術家は概ね長生きで、老年になっても矍鑠としている人が多かった。健康に執着しているわけではなく、長年の練功の甲斐というものだろう。そもそも武術家たるもの、その道を選んだ以上は一生のものである。経験を重ねるにつれ目先のことにはこだわらず、高い山頂を仰ぎ見る。ただ若いうちは目先のこと、早く強くなりたいとと焦る気持ちが勝つのは仕方がない。ある武術家は、「若いものに伝統的拳法とボクシングを教えたら、ボクシングを教えたほうが早く強くなる。ただそれだけだ。」と言っている。ボクシングは二十代前半くらいに強さがピークとなるように鍛え上げる拳術である。三十代前後で引退が見えてくる短いものだ。だが、人生はそれから何年続くのか。中国拳法では鍛錬を積むほどに体力や反射神経といった年齢的なものを越えた何かが高まってゆくものとされ、名人達人に言わせると、「わしは寿が尽き、死ぬ直前が一番強い」と死の寸前まで向上するという、究極的な意見である。もうこれは闘争を越えた人間としての強さの境地に違いないと思う。正しい鍛錬を続ければ無限に強くなっていくはずだという確固として信念が見えるし、健康問題というものもおそらくあまり念頭にない。
 人を斃すのが仕事と言える武術家が健康問題に関心を持ち、かつ他人の養生治療のことまで思うようになるケースは決して少なくない。広い意味での人間に対する愛情の発露であろうが、その実、幼少のころから身体が弱く、大病をした経験がある人のほうがその方面に向かいやすいと言えるだろう。まず自分を強健にしようとその方法を求めるものである。王向斎も少年の頃、非常に病弱であった。
 王向斎は河北省深県の出身である。王家は知識人の家であった。王向斎の写真を見ると武術家というよりも、物静かな学者のような知的な風貌である。実際に単なる強豪武術家にととまらず、拳学を唱え、健身站椿功の研究をしたり、理論派で学者肌の人であった。
 王向斎の健康を危ぶんだ家族は、同じく深県出身の形意拳の伝説の雄、郭雲深のもとに連れてゆき、入門させることにした。「半歩崩拳遍く天下を打つ」と讃えられた拳豪も高齢となり、足を悪くして故郷の村に戻っていったのである。郭雲深は年端をいかぬ王向斎を見て、最初、弟子にするつもりはなかったが、ちょうど郭雲深の子息が事故死したこともあり、特例として内弟子として預かることになった。かくして王向斎は郭雲深の関門弟子(最後の弟子)となったのである。 <この項続く>
 

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