浦幌町(厚内市街~オタフンベチャシ跡往復)、十勝オコッペ遺跡
令和元年(2019)11月2日(土) 10:27発 6.3km 46分
この3連休の初日は、浦幌町の史跡を訪問することに。朝7時頃に根室を出発し、10時半前に厚内駅に到着。ここから海岸線をオタフンベチャシ跡まで走ることにする。ここは砂浜でサーフィンのメッカだそうだが、今日は波が穏やかでサーファーはいない。
片道3kmほどなので、20分ほど走ると、小高い丘が見えてきた。オタフンベチャシ跡は牧場の牧草地の横にそびえたっていた。道路から説明看板の横から踏み跡があるので、チャシの登る。たいした高さではないので、すぐに頂上に到着。頂上からは海はもちろん、両サイドの海岸線、後ろの山のほうも見渡せた。頂上周りには、人口の堀のようなものがあった。アイヌ人が掘ったものなのだろうか。しばらくたたずみ、降りて厚内集落に走って戻る。チャシの詳細、説明版の転載は次のとおり。
【オタフンベチャシ跡】
・ 所在地:北海道浦幌町直別
・方 式:丘頂式
・主な遺構:空堀、周濠1条
・マップコード:921 866 618*64
・説明看板:
史跡オタフンベチャシ跡は、白糠丘陵が太平洋に半島状に突き出た半独立丘陵の先端に構築されたいわゆるお供山型のチャシ跡である。
標高27mの上部平坦面は、東西21m、南北7mの長方形を呈し、標高22m付近に深さ1m、幅5mの空濠をめぐらしている。
お供山型チャシ跡の典型的なものであり、チャシの代表として貴重である。
【十勝オコッペ遺跡】
厚内から十勝太展望台に向かう途中、海岸線の牧場とのところに、「十勝オコッペ遺跡」の説明版があった。牧場の後ろの海岸段丘に集落跡があったのだろう。以下、説明版の転載。
この遺跡は、1935年m、郷土史家斎藤米太郎によって発見され、1971年町教育委員会の分布調査を経て、1976年5月21日に北海道史跡に指定された擦文集落跡である。
太平洋を臨む標高20~30mの段丘上に所在し、東西180m、南北200mの範囲に20基の竪穴が分布しているが、これまで発掘調査が行われたことはない。明確に分かる方形の竪穴は擦文住居と考えられ、その配置関係から五つのグループに分類され、住居は1~3基単位のまとまりで、隣接する沢筋、台地縁、尾根筋に一直線に、居住好適地から劣悪地へ居住するようになると分析されている。
擦文集落の様相については、これまでいくつかの遺跡で意欲的な研究がされてきているが、太平洋に所在する擦文期の中規模集落跡として、集落構造の分析が期待されている。
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