オロフレ峠道路史碑

山登り

平成25年(2013)6月1日(土)単独 オロフレ山登頂断念・オロフレ峠道路史碑、徳舜瞥山撤退

 6月2日(日)に千歳JAL国際マラソンがあるため、札幌に帰省がてら、天気も良いので、また、あまり体に負荷のかからない山登りにいくことにした。今回は高山ながら峠から簡単に登れるオロフレ山を目指す。朝5時にせたな町を出発し、洞爺湖、壮瞥を経て、オロフレ峠に向かう。しかし、登山口のあるオロフレ峠展望台への道がまだ開通していなかったのである。ガーンである。ネットで調べると6月中旬に開通とのこと。オロフレ峠道路史碑の文を転載。

【オロフレ峠道路史碑】
 この道路は、支笏洞爺国立公園の洞爺と、地獄谷で知られる登別温泉とを結ぶ北海道有数の観光ルートとして知られ、利用する観光客は毎年百万人の多くに達しております。
 明治14年に滝本金蔵氏が、私費を投じて、登別~登別温泉間の道路を開さくした事に始まり、以後明治24年の客馬車、大正4年の軽便鉄道などの開通を経て、大正10年この道路の一部、登別~カルルス間が、準地方道として認定されたものです。
 昭和7年、弁慶~オロフレ間(壮瞥側)の道路改良が完成したのを始まりに、カルルス~オロフレ間は、昭和8年から3カ年を要して一応は完成しましたが、昭和11年の融雪大水害を始め、満州事変の勃発などにより以後15年間不通のまま放置されていました。
 昭和29年道道昇格に伴い、カルルス~オロフレ間の改良工事に着手し、昭和37年一応の概成を終え、昭和38年には登別~カルルス間の舗装工事を完成するに至りました。その後、峠区間の法面保護、落石防止の工事を行ってきましたが、特にオロフレ峠から登別側7kmの区間は急勾配、急カーブの連続であり、冬期交通も遮断されていたことと交通の増加に伴って、早急な改良が望まれるようになりました。
 そこで、オロフレトンネル(935m)を含む本格的な改良工事のための調査が、昭和45年より開始され、昭和52年より12年の歳月をかけて昭和63年10月、通年通行できる主要道道洞爺湖登別線として、供用を開始するに至ったものです。


 ここでここの山を諦めて、札幌に帰る途中にある伊達市大滝区の徳舜瞥山に向かう。ここは2008年に登ったことがあるが、ガスで視界が一切なかった。さらに、ホロホロ山もセットで登れるが、当時は登らなかったので、今日登れば絶景だと思い、リベンジも兼ねて向かう。
 9時頃、登山口につくと車が5台くらい停っている。人も入っており安心だと思い、登り始めてすぐ、登山道が川状態になっている。登山靴がビショビショになりながら登る。雪解け水なのでやたらに冷たい。川が終わると今度は雪がたくさん残っている。踏み跡を登り、降りてくる人とすれ違う。降りてくる人いわく、もう少し上まで行ったが雪で道がわからなくなり危険なので降りてきたという。ここでもガーンである。無理すれば登れるが、危険を犯すのはダメである。よってここで断念して、札幌に向かいました。明日マラソンだし、今日はおとなしくしよう。
 帰りに、喜茂別町中里の乳牛の放牧風景の向こうに兄弟の山のように尻別岳と羊蹄山がそびえ立っていました。山も綺麗だが、牛は青草を食っている時が幸せそうですね。

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