カリンバ遺跡・富山県人開拓之碑・拓望の像

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平成24年(2012)6月10日 恵庭駅~恵庭カリンバ遺跡~恵庭市郷土資料館~島松駅~北広島駅 8:30~13:00頃 

 今日も、街角ランニングに向かう、二日連続で足腰が痛いが、サロマ100kmに出るためには、この位我慢しなければならない。走ったことがない恵庭から北広島を目指す。あわよくば自転車道路を新札幌まで行こうとするが、今日は北広島で断念。
 恵庭も開拓でできた町であり、その遺跡があったことと、道の駅の直売所は人で混雑していたなど新しい発見がありました。

【カリンバ遺跡】
 遺跡は、JR恵庭駅の北方約800メートルのところにあります。平成11年、黄金土地区画整理事業で計画された「団地中央通り」建設工事に伴う発掘調査を旧カリンバ川の南側で行いました。面積約3,000平方メートルの発掘区域から多数の土坑が発見されましたが、そのなかに漆塗りの装身具や玉が多数副葬された縄文時代後期(約3,000年前)の土坑墓群が含まれていました。30号・118号・119号・123号土坑墓があり、漆塗りの櫛、頭飾り、耳飾り、腕輪、腰飾り帯などの副葬品が大量に出土しました。その中には国内で初めて発見された漆製品も含まれています。
合葬墓の118・119・123号墓は、現地から墓をそっくり切り取り、埼玉県川口市に内にある文化財の保存研究所の室内で漆製品の保存をかねて発掘するという、極めて稀な調査を行いました。この間、全国的にカリンバ遺跡は注目されるようになり、貴重な遺跡を後世に残すことをもくてきとして、平成12~15年度に周辺の詳細分布調査を実施しました。
その結果、段丘面の広い範囲に墓域が確認されただけでなく、今まで知られていなかった北側の低地面にも当時の人々が生活していた遺跡が発見され、墓地とそれを残した人々の生活場所とが一体で残った遺跡であることがわかりました。
 このことが高く評価され、黄金町216番地ほかの段丘面と低地面の約4.26ヘクタールが平成17年3月2日、国の史跡として指定されました。

【富山県人開拓之碑】
 富山県下の農民は打ち続く大洪水に塗炭の苦しみに喘いだ。明治25・6年に小矢部市藪波村村長兜谷徳平氏は、県民百戸近くを漁村に移住せしめた。風雪は開拓小屋を吹き抜け、ひぐまの横行する原子村に、いばらを押し分けつつ開拓の鍬を打ち下し飢餓に耐えながら言語に絶する苦難を克服し耕地の拡大に励んだ。その後、縁故入殖や北陸の人々で恵庭の開拓は進められた。氾濫を繰り返す漁川を克く利水し、開田に努め大正の末期には田畑五千町年余を開墾し、実り豊かな恵庭村は出現した。『噫々その偉業何にたとうべき哉』これらの事を後生に語り継ぐべく杉森梅太郎氏は、有志と語り恵庭富山県人会を創立した。それから十年、和と親睦を深めつつ今日に至る。現在恵庭市は、道央の拠点都市に発展するも、百年前を想起し開拓に心血を注いだ先人の方々に深い感謝の誠を捧げ、ここに記念碑を建立する。               謹白

【拓望の像】
 明治18年わが郷土の先達ははるかに馬追山からこの恵庭市の平原を相し、酷寒にいとみ飢餓と闘い、心血をそそいで鬱蒼たる原始の巨木にいどみいばら多き原野を拓き、互に希望の火を漁川のほとりに焚き百折不屈ついに今日の隆昌発展の基礎を築いた。いまここにその功業を偲び拓望の像を建立し、感謝の意を棒げると共に、永く志しを後代に伝えんとするものである。昭和54年8月建立 恵庭市長 浜垣 実

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