三浦按針夫妻の墓・畠山・木古庭不動尊

山登り

平成24年(2012)3月3日(日) 10:30頃~13:30頃

 昨日の晩は国会待機で結局、終電間際。職場でいろいろご指導も受け、むしゃくしゃしたこともあって家に帰ってから、酒を久々に痛飲。そのため、少し寝坊したため、今日は近場で行っていない三浦半島のトレイルランニング。最初は田浦梅林から2年前の春に行った二子山と思ったが、走っていて畠山に変更。畠山は昨年の三浦半島縦断トレイルランレースで通ったところだが、今回はゆっくり堪能できた。そして、横須賀から葉山に抜けるおそらく旧道も走ることができた。新杉田から京急杉田駅へ向かう際、杉田商店街を通る。少し昭和チック。

 京急安針塚駅から坂を上って、三浦按針夫妻の墓へ。 三浦按針夫妻の墓。戦国から江戸時代にかけて、外国から日本に漂流して流れ着き、徳川家康の恩寵を受けたという。以下、ホームページより。

【三浦按針】
 日本に最初にきたイギリス人とされるウィリアム・アダムズWilliam Adamsの別称。少年期造船所に勤め、やがて水先案内となる。イギリス艦隊に船長として従事したのち、オランダに渡り、1598年司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、1600年4月19日(慶長5年3月16日)豊後臼杵(ぶんごうすき)湾の佐志生(さしう)(大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺(さかい)より関東の浦賀に回航した。かねてから関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ)(神奈川県横須賀(よこすか)市)に知行地(ちぎょうち)を給した。三浦按針の名はこのようにして生まれた(按針とはパイロット=水先案内の意)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステンとともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学、幾何学の初歩を教授するほか外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ、イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことは有名である。彼はイギリス人ながらイギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、元和(げんな)6年4月24日、55歳肥前平戸(ひらど)で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられ、逸見に近い塚山公園にある。

 浦賀道。これも古道なのだろうか。田浦の梅林は、まだ蕾。水仙と菜の花がきれいでした。 

【畠山205m】
 1時間ほどで畠山についた。この山の上にも、碑がある。昔の人も登ったのだろうか。頂上でちょうど12時だったので、昼食。クリームパンと卯の花の和え物で軽く済ます。

【木古庭不動尊】ネットより転載
 畠山次郎重忠公(1164?1205)は不動明王の熱心な信者で、高倉天皇の折、衣笠城に三浦大介義明を攻めることになりました。木古庭の畠山という場所に城を築き、守り本尊の不動明王像を安置して戦勝を祈り、戦ったところ、御利益があって勝利しました。凱旋の後、重忠公が像をこの滝谷山に勧請すると、一夜のうちに山から清水がこんこんと湧き出で、一條の滝となったということです。この滝は100日の旱魃にも涸れる事無く、人々の飲料や田畑の用水として利用されました。また、江戸時代の宝永年間の大旱魃にこの不動明王に祈ったところ、湧き水の量が増し、収穫が出来るようになったので、この霊験に感激した領主が修復料と寄附証を贈ったという歴史があります。
この滝に打たれて病を治療する人も数多く、毎年正月、5月を縁日・8月中旬日曜日を大祭と定め、五穀豊穣・家内安全・無病息災・商売繁盛・交通案穏の加持祈祷があり、参詣者が多くあったと記されております。
「木古庭の鎮守」として古くから人々の信仰を集めているこの不動尊は、地域の嫁出し・嫁取りの時には必ず新婦が参詣して幸福を祈るという風習がありました。また、戦時中は応召者は必ず参詣し、帰還の折には無事の報告に詣でました。
不動明王像は木造で、身の丈32cm、腰回り25cm、火炎の高さ42cm、幅17cmの大きさです。お顔や身体は青紺色で、火炎は赤に彩色されています。
不動堂から50m位下ると不動の滝があります。この滝は三浦半島随一と称され、刈山の大楠山ハイキングコースにも組み入れられています。縁起中に「滝に打たれ衆病の治療せし者数ふるに遑あらず」とあり、実際に南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら、一心に水に打たれて念じる人が暫々見られました。
明治、大正の頃は、今日のような海水浴の風習がなかったので、夏の暑さを凌ぐためにも滝への参拝が多く、たくさんの茶店ができました。これらの家屋はいまだに残っていて、現在では人の住居となっています。
境内にある大きな紅葉はご神木で、この一帯は町の天然記念物に指定されており、里人の誇りとして、また憩いの場として親しまれています。
更に「畠山次郎重忠公一族郎党の霊」と書かれた供養塔があり、今でも重忠公の徳を偲んでお花や線香をお供えする方もおられます。

 県道27号を走らないで、川沿いの古道らしき道を走ると、庚申塔があった。やはりそうだ。 葉山の海岸を通って、大海荘でお風呂に入って帰る。

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