上手稲開村碑・手稲開基百年記念碑

旅ラン

令和4年(2022)4月10日(日)

札幌市西区西町(手稲記念館、上手稲開村碑、手稲開基百年記念碑)
家から往復 8.7km 1時間6分
 
 吉方の史跡訪問ランニング。上手稲神社近くの手稲記念館はまだ走って訪問したことがなかったので訪問してみる。
 会館自体は日曜日が休館であるため、石碑のみレポートする。

【上手稲開村碑】
 台座の上に置かれた大きな自然石でできた碑の碑面には、「上手稲開村碑」と刻まれた碑銘の下に、細かい漢文の文字が刻まれているが、碑の位置が高いのと文字の一部が風化していて解読が困難である。また、碑の背面には十数人の人名が刻まれているようだが、これも判読が困難。そして、台座には「賛助員」の氏名が多数刻まれている。
 石碑の脇には説明板が建てられており、それには「明治4年、旧仙台藩士片倉小十郎邦憲(白石城主)が北海道開拓を命ぜられ、その家中(家臣)150戸241人が翌5年に入植したのが、この地(上手稲)の草分けであり、手稲発祥の地と言われています。この碑は、上手稲に集団移住した先人たちの苦心と開村の事情を後世に伝えるため、半沢新三郎ら青年会有志が発起人となって、明治43(1910)年11月3日に建立されたものです。隣の手稲記念館が新設された昭和42年に、西町北20丁目にあった元、上手稲神社の境内から現在地に移築されました。」と記されている。
 この説明板には、北海道開拓を命ぜられた片倉小十郎が家臣を引き連れて入植したことが記されていますが、当初の入植地は現在の白石であり、その中から三木勉を隊長にした241人が上手稲に移住したのが手稲の開基と言われている。

 上手稲開村碑の向かいに手稲開基百宇年記念碑があった。

【手稲開基百年記念碑】
 碑は、白御影石でできた囲いの中に、白御影石の本碑と黒御影石でできた副碑が並んでいて、本碑の碑面には、「手稲開基百年記念碑」と刻まれた黒御影石の石板がはめ込まれている。その下には、「北海道知事 町村金五書」と刻まれた石板が添えられている。
 副碑には、「碑誌  今茲に手稲開基百年を迎えた。この時に当たり手稲草創の時代より今日まで数代に亘って厳しい風雪と血のにじむ困苦に堪えたゆまぬ努力を町造りに捧げられた先人先達に感謝の誠をこめてこの碑を建立し、以って永く後世に伝えることにした 昭和四十六年四月二十日 手稲開基百年記念事業実行委員会 委員長 蓑輪早三郎」と刻まれている。

 西区西町南に手稲記念館が所在するのは、西町はかつて旧手稲町の一部の地域を改名したためでだそうだ。

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