標津町の礎を築いた会津藩の精神、会津松平家十四代当主 松平保久氏講演会
日時:2018年(平成30年)7月8日(日)13:30~ 場所:標津町生涯学習センターあすぱるホール
なかしべつ330°開陽台マラソンを走った後、午後に時間ができたので標津町に寄り、会津松平家十四代当主 松平保久氏の講演会を聴いてきた。
会津藩は幕末の1859年に幕府から領地を得て、標津町周辺に移住し、北方警備に従事するとともに、現在の標津町の市街地の基礎を作った。その名残として野付半島に会津藩士のお墓があり、地元の町内会が長年供養されてきた。入植した会津藩は戊辰戦争に加わるため1868年に標津町を離れ今年が150年目の節目ということで、当時の藩主容保のひ孫14代当主の、松平保久氏を招聘したということである。以前派遣されていたせたな町にも、会津藩の末裔の方がいたが、ここの標津町も会津との関りが深い。これも何かのご縁と感じ、当日の講演会の内容などを記したいと思う。まずは、当日、配付されたパンフレットから転載。
【パンフレットから転載】
2013年にNHKで放映された大河ドラマ「八重の桜」は、会津藩による京都守護から会津戦争、そして明治以降、旧会津藩士とその家族達がいかに生きたかをテーマに描かれたドラマでした。このドラマ前半で描かれた幕末の頃、会津藩は現在の標津町に拠点を定め、別海町西別から紋別市までの領域を領土とし(一部は幕領警衛地)、藩士とその家族を動員しての北辺防衛と開拓にあたっていました。この幕末会津藩による北辺防衛の歴史は、当時動乱の渦中にあった会津にはほとんど記録が残されておらず、会津ではあまり知られていないそうです。
資料の乏しい中、当時の歴史を探る鍵となる資料が三つあります。一つは現在、ポー川史跡自然公園で展示公開されている、標津町指定文化財「御陣屋御造営日記」です。この日記については、かつて標津町で活動していた標津町郷土史研究会の長年の調査研究により全文が解読され、現在の標津市街地南にいちづるホニコイと呼ばれる地区に、会津藩が陣屋を築いていたことが明らかにされています。
二つ目の資料は、現在野付半島を通る道路脇に置かれ「会津藩士の墓」として標津町指定文化財となっている二基の墓石です。このうちの一基には正面に「稲村兼久乃墓」と「同孫女乃墓」右側面に「文久三歳仲春廿乃二(文久三年三月二十二日)」、そして左側面に「陸奥会津乃産士部津詰」の文字が刻まれています。会津藩領となった標津での、初期の警衛・開拓に従事した藩士とその家族だったのでしょう。この墓に対しては、昭和43年に自衛隊と標津町により「北辺防衛会津藩士顕彰碑」が建立され、会津藩による北辺防衛の歴史の事実を示す物的証拠として、今も大切に保存されています。
そして三つ目の史料は、新潟県西巌寺が所蔵する通称「標津番屋屏風」です。この屏風は今からおよそ150年前の標津神社付近を描いたもので、会津藩の絵図面として蝦夷地に派遣された一ノ瀬紀一郎という人物が、文久二年に描いたスケッチを基に、会津藩の絵師星暁沌が元治元年に屏風として完成させたものと考えられています。
これまでの調査により、この屏風に描かれた人物の中には、文久二年により標津で代官を務め、後に秋月悌二郎らとともに奥羽列藩同盟締結に向け東北中を奔走することとなる南摩綱紀と、野付の通行屋で通じを務め、文久二年当時標津場所支配人となっていた加賀谷伝蔵の二人が描かれていることが明らかとなっています。そしてこの屏風に描かれた場景は、当時政務の要であった南摩と経済の要であった伝蔵とを左右に配し、標津場所での鮭漁が豊富な様子と、蝦夷地の豊富な木材資源の様子を表現したものであり、会津藩が新たに手に入れた蝦夷地の領地における資源の豊かさを伝えているように見えます。
「御陣屋御造営日記」をはじめ、各種史料を見る限り、当時の会津藩の状況は社会的にも財政的にも非常に苦しい時期でした。そのおうな状況下で制作されたこの屏風には、蝦夷地に派遣された会津藩士が、北の大地の豊かな資源を目の当たりにしたときに描いた、新時代への希望が込められているのではないかと推測されています。そして当時、京都守護職として京都で重責を担っていた、藩主松平容保公の心労を和らげるため、屏風完成後は藩主の下に送られていたのではないかと考えられているのです。
北海道の東の外れ、標津町に残る会津藩士の足跡。そこからは歴史の表舞台に現れることのなかった、もう一つの幕末史の存在を読み解くことができます。
【講演会概要】
昨日、町の皆様のご協力で、墓所での法要、神社での植樹が執り行っていただいた。標津町を初めて訪問したが、町長をはじめ皆様からチャンスをいただいた、ありがとう。
会津藩が北方警備を行っていたことは概略はわかっていたが、地元の方々が墓所を丁寧に供養いただいていることを知り、かねてからお礼かたがた訪問したかった。
各自治体で明治維新150年のロゴを出しているが、長州薩摩などは明治維新150年、会津等の旧幕軍は戊申150年。地域によって受け止め方が異なる。
会津藩は会津戦争の後、現在の下北半島むつ市の斗南藩に移封され、廃藩置県の後、バラバラになり、北海道の札幌市琴似、瀬棚、余市、利尻等に移住させられた。
戊辰戦争以前の1862年に北方警備のため、南摩綱紀ら藩士と家族200人が標津町に来た。南摩綱紀は秋月悌次郎に並ぶ秀才であった。会津は内陸で、海に面する標津に来て、会津とは全く異なる風土に感動したに違いないと思う。
なお、その以前に田中玄宰、3代の当主に仕えた名家老であるが、1807年にオホーツクや宗谷地方をメインに1600人の藩兵を率いて北方警備に従事したことがある。その時に現地で亡くなった藩兵の墓が稚内や利尻に残っている。ということで、会津と北海道は深いつながりにある。
幕末は1853年(嘉永6年)のペリー来航から1869年(明治2年)の五稜郭戦争終結までとされている。その頃海外では、欧米列強が盛んに世界進出をもくろんていたが、米国は南北戦争で少し出遅れていた。日本はというと徳川幕府が265年もの長きにわたり治世を納め、パックスロマーナならぬ、パックス徳川とも言われていた。
薩長による明治維新が正義だったのか。幕末の徳川幕府は無意味だったのか問いたい。幕府に忠誠を尽くした会津藩はどうだったのか。歴史は勝者によって作られる。
国定教科書には「会津藩は東北諸侯と申し合わせ、若松城に立てこもり、官軍に立ち向かった。官軍は諸道から進み、ほとんど1か月も城を囲んだ。城中の者は力尽きて降伏した。」とされている。「「会津が中心となって」や「諸侯と申し合わせ」ということも事実でないし、当時としては官軍もなく、東西軍というのが正しい見方である。この教科書を見た会津の人々はどう感じたのか。
私の一族の人で節子、容保の孫がが昭和3年、戊申の年であるが皇室、秩父宮に輿入れした。その時の会津の人々の喜びようはすごかったようである。その時に八重の桜の山本八重が「いくとせか、峰にかかわる むら雲の 晴れてうれしき 光をぞ見る」と唄った。勢津子妃殿下が亡くなって23年間が立ったが、自分は小さいころに父親に皇室に連れられて会いに行ったが、そのとき勢津子妃殿下は「会津はいかが、変わりない?」といつも言っていたのを覚えている。
会津藩の藩祖、保科正之公は家康の孫であるが、直系ではないので、1643年に会津藩を任された。従弟である3代将軍家光公の信頼厚く、家光公が亡くなる際に、枕元で4代将軍家綱を頼むと言われ、以後4代将軍の補佐役として、江戸城に詰めて幕政に従事したとされている。正之は謙虚で、江戸城で将軍に拝謁するときに後ろの方に座るので、他の外様が座るところがなく廊下に出てしまったという逸話がある。
正之は幕府で様々な改革をした。今でいう年金のようなものや玉川上水、明暦の大火の復興などである。特に明暦の大火の復興は、参勤交代で江戸に詰めていた諸侯をすぐに地元に帰し、江戸の人口を減らして米価の高騰を抑制した。また、江戸城の本丸が焼けてしまった、周囲の反対を押し切って本丸の再建をしなかった。このように正之は江戸時代初期の善政をしたのである。
正之は松平家家訓(かきん)15カ条を定めた。いわば会津藩の憲法というべきもので、子供が悪いことをすると親からこの家訓を唱えさせられたものである。
その第1条が、「大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。 列国の例をもって自ら處おるべからず。もし二心を抱かば、すなわち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」とされており、その子供版の「什の掟」に「ならぬものはならぬのです」ということが書いてある。会津藩ではこうしたことを日新館という藩校で、子供たちに文武両道の徹底した教育がなされていました。
1862年、南摩綱紀が標津に派遣されていたころ、京都では尊王攘夷派などが跋扈しており治安が相当悪化していました。京都には京都所司代などの警察組織がありましたが、幕府としては武力で抑えることが必要から、親藩の中でも真面目で武力もある会津藩に白羽の矢が立ちました。これはどう考えても火中の栗を拾う損な役割であり、容保は頑なに断りましたが、福井藩主松平春嶽や一橋慶喜の説得に折れ、やむなく引き受けたのです。
当時は、大老井伊直弼のもとで、日米和親条約や日米修好条約を締結するなど、開国の方針に転換していた。鎖国という言い方よりも、オランダとの管理貿易という方が正しい。江戸時代のオランダとの貿易により、オランダには日本の情報がたくさんあります。
尊王攘夷に対し公武合体、倒幕に対し佐幕と国内が二つに割れ、対馬事件、下関事件と続き、長州と尊王攘夷派の貴族は天皇自らを担ぎ出し幕府に戦争をいどむ大和行幸を画策します。大和行幸を事前に察知した会津藩は、長州を追放したのですが、長州はそれ以来、会津に深い恨みを持つことになりました。
孝明天皇は、宸翰(しんかん)を1863年(文久3年)に、”八月十八日の政変”を行った礼に、会津藩主松平容保も送られた。天皇と容保の絆の深さを表すものであるが、これを松平容保は、竹筒に入れ生涯誰にも見せることなく、亡くなったという。
しかし、政情は松平家にとって思いもよらぬ方向に展開します。禁門の変、薩長同盟、孝明天皇崩御、大政奉還、王政復古。1868年1月鳥羽伏見の戦いで、岩倉具視は錦の御旗を打ち立て、幕府軍のトップであった徳川慶喜は朝敵になりたくないため、江戸に帰ってしまいます。そして、西郷隆盛と勝海舟の会談を経て、江戸無血開城から鶴ヶ城籠城戦へとなっていきます。会津藩は恭順の意を示していて、本来なら江戸城の開城で終わっているはずなのですが、薩長はどうしても会津を一方的に悪者にしたかったのでしょう。
降伏条件は、城主・家老の切腹と領地を全部差し出すこと。当時の藩は、今でいう国みたいなものなので、すべてを差し出すという選択肢はなかったのです。そして1868年9月22日、鶴ヶ城開城。降伏文書の内容は全面降伏です。これを見ると今でも涙が出てきます。
意義に死すとも不義に生きず。会津藩はこの精神を貫いたのではないでしょうか。果たして戊辰戦争に大義はあったのでしょうか。江戸城無血開城で目的は終わったのではないでしょうか。大河ドラマ「せごどん」での西郷隆盛は美化しすぎです。おそらく、西郷は幕府軍の再集結を阻止するために、会津をつぶそうとしたのです。
会津の愚直の魂に学ぶ。明治維新150年ではなく、戊申150年と言いたい。歴史は先入観にとらわれてはいけません。特に勝者により歴史は作られるのです。歴史にイフはありませんが、私はイフは必要だと思います。
ご清聴ありがとうございました。
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