別海町
(別海町役場~(国道243号線の南側の町道)~中西別~(国道243号線の北側の町道)別海町郷土資料館・加賀家文書館~別海町役場)
平成31年4月27日(土) 31.2km 4時間4分
今日は中標津で飲み会があるため、途中、別海町でLSDを実施することに。本日は季節外れの雪で、若干風も強く寒いが強行することに。
別海町役場の広い駐車場にただ一台だけ停める。別海町役場の前には「別海町開拓百年記念碑」がある。
(転載はじめ)
北辺未開の原野、寒冷不毛の地とも呼ばれていた大地が、今、国内で有数の酪農郷として甦生、本町の黎明期を導いた。さけ・ます等の水産業とともに、一大食糧基地としての誇りを秘めつつ、商工業等その発展おも(ママ)誘発し均衡ある町勢の進展のうち、ここに別海町にとって真に意義深い開基百年の輝かしい年を迎えた
今日の繁栄あるは、永年にわたる先人の苦闘と幾多の苦難を乗り越えた先覚・先達の迸る開拓への情熱、官民渾然一致の努力であり、加えて関係当局の適切な助言と真の賜ものと感銘一入のものあり、この百年を講釈稱さば「苦闘激動」の一語に盡きん
近年、社会情勢激変のとき、先人の偉大な業績を継承しつつ、後生に伝へ、町民憲章を高く掲げ、二百年に向かって躍進する決意を宣明するものである
明日への栄光、豊かな郷土をめざして ここに刻する。
(転載終了)
難しい文章が多いが、感動して走り始める。市街地を抜け、国道243号線の南側の町道を西に走る。しばらく走ると矢臼別会館があり、ここにも開拓の碑があった。
(転載はじめ)
北海道第二期拓殖計画が施行になりました昭和二年、本州各県からこの矢臼別の地に二十六戸の移民が入植 依頼開拓の鍬を振って満五十年を迎えるに至りました。
その間昭和六、七年には想像を絶する冷害凶作に見舞われ、住民は食うに食なく、働くに職なく、生活は極度に困窮し将来の不安に怯え、南米或いは南洋方面へ新天地を求めて旅立つ人 又は心身共に疲れ果て故郷へのと脱落していった人が多かったのもこの頃でした。
たまたま北海道庁の施策によって取入れられた酪農も第二次世界大戦の影響をうけ遅々として進まず苦労の連続を経験した次第でした。
然し私共は将来この地に理想の酪農郷を築きあげるべく幾多の困難と斗いともに助け合って今日 一戸当たりの年間生乳一五〇屯余を生産するまでにこぎつける事ができました。
こうした経過を溯って今日を迎えるに至った蔭には幾多の尊い先人の苦労と犠牲があったればこそであれまして私共はその功績を永く後世に伝えるためにも、この度沿革誌発行の企画と併せて開拓五十周年記念碑の建立の運びと相成った次第であります。
(転載終了)
しばらく走ると中西別の市街に入った。中西別の市街にも開拓50周年記念碑があった。転載が続きうんざりしてきたが、意地でも転載することにする。
(転載はじめ)
昭和初期、北海道第二期拓殖計画に基づき全国各地により新天地を求めて362戸の人々が朔北未開の地、中西別に開拓の鍬を下した。昭和6、7年の内続く冷害凶作に開拓の夢破れ、窮乏と不安に駆られた多くの人々は動揺し離農するもの続出したが開拓の志に燃えた人々は、この疼痛を必死に堪え、昭和8年主畜農業五か年計画樹立に伴い補助牛の導入により次第に酪農の機運を高めた。
昭和16年、太平洋戦争勃発により稼働力の不足、戦争の激烈化とともに、生活も一変し、困備心の極、酪農も必然的に停滞の止むなきを辿った。
昭和20年、戦後食糧増産の施策に基づき、緊急入植が実施され点在する未開地は急速に開拓された。
爾来、国の諸政策とあいまって、鋭意努力、酪農は著しく、その進展をみ、今日の大酪農の郷を築くに至った。
ここに中西別開拓五十年を迎えるに当り先人の労苦を偲び、今日の姿を後世に伝承せんが為にこの碑を建立する。
昭和54年十月吉日 中西別開基五十周年記念協賛会
(転載終了)
次に中西別神社に参拝すると。ここの神社には巴の御紋のようなものが飾ってある。しかも石碑に歴史が書いてあった。
(転載はじめ)
当社は昭和六年拾月拾五にち地域住民の願により札幌神社の御分霊を森高賢三郎代表が??し中西別守護神として当所に遷建築社し奉祀したるを創とする。
(転載終了)
中西別から上春別に抜ける道を北上し、しばらく行った後右折して、別海市街への道を走る。しばらく走ると別海ミルクワールドに到着。数多くの住宅が立ち並び、集乳車もたくさんある。この道は車でも通ったことがないが、本当に酪農家が続き、メッカと言えるのではないだろうか。
しばらく走りたんぽぽ牧場のところにまたしても碑が立っていた。
(転載はじめ)
草分足掛五十周年を迎へるに当り、当時の一部を思ひ出し誰もか初めての知号であった。
昭和四年三月八日を初めとして移住せし者なり、西別川中流添への別海村大字別海村字西別原野四十三線北三号の一号ハラックを中心として入植セリ。当初戸数三十七戸、人口約187名もあった。其の中には八十歳以上の高齢者も数名あり其の決意の程が偲ばれました。厚床まで汽車で来て駅がランプなのに驚きました。厚床移住者世話所で入地箇所を抽引して西別移住者世話所を目指して案内の馬橇に老人子供、荷物を乗せて大人達は三十二キロの雪道を歩いた。西別世話所の田中所長を初め根室支庁嘱託移住者世話係小林熊次郎氏、移住者移動員楳田新一氏等それぞれ大変なる御世話と御指導に預かり、感謝に堪えません。住居も定まり家族一丸となって開墾に励み初秋には然内小学校も開校の運びとなり嬉しかった。区政もしかれ四十一線が境となり別海村第十三区となる。昭和五年には中西別移住者世話所も開設され中西別管轄となる。所長に山本武四郎氏就任大変手厚なる御世話と御指導に預かり感無量の恩に存じます。農事実行組合も組織され其れから再三再四の苦境に耐へ開拓魂は悲相な固りで皆等しくも五十年目に当たる今日では十三戸の酪農家が邁進中、此の地の魂を育て、それぞれの地方に転住した方々には深く感謝を申し上げますと共に、皆様の御発展御繁栄を永遠に誓い度い開拓五十周年を記念して先人の足跡を後世につたえんが為に此の碑を建立する
昭和五十三年三月吉日 別海町長 上杉貞書
(転載終了)
ここからしばらく走ると別海の市街地に出て、別海郷土資料館と加賀家文書館を訪問して、駐車場に戻る。本来なら資料館と文書館もレポートしたいが、疲れたので、またの機会にする。
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