国鉄旧標津線厚床支線跡(厚床駅~旧別海駅(別海バスターミナル))
平成31年5月19日(土) 23.9km 5時間33分
旧標津線厚床支線の厚床~別海間を、4人のパーティーを結成し、踏破した。この道は熊と遭遇する恐れがあるので、できる限り集団での行動が必要なのだ。別海に一台車を置いて、その後また厚床まで移動し、8時頃に厚床駅をスタート。
なお、「歩鉄の達人」さんから、同線の概要を転載させていただく。
http://www.hotetu.net/haisen/Hokkaido/120701shibetusenatutokoshisen.html へのリンク
【転載はじめ】
標津線厚床支線は、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。中標津町の中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線からなっていた。国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線に指定された。JR北海道に承継されたが1989年(平成元年)4月に廃止された。当時は北海道庁などによる殖民軌道が敷設されていたが、輸送力の限度と馬の維持にかかる経費が問題になり、輸送力の増強が求められていた。交通の不便さから開拓地を放棄せざるを得ないものも現れ、深刻の度を増していた。開拓民の度重なる請願により、先述の鉄道敷設法の改正を見た。道路の整備に伴い、沿線にもモータリゼーションが進み旅客営業も低迷した。既に1950年代には、閑散区対策として開発されたレールバスであるキハ03系が投入されている。1968年には赤字83線に選定され、廃止論議が持ち上がった(当時の営業係数は219)。一時は廃止を免れたものの、1970年には営業係数が405に悪化するなど、年々赤字が増えていった。いくつかの駅を直営駅から業務委託駅に転じさせ、経費の圧縮を試みたが焼け石に水であった。1980年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線に指定されたが、冬季の代替輸送に問題があるとして他の3線(天北線、池北線、名寄本線)とともに一時、廃止承認が留保された。しかし、結局1985年に問題がなくなったとして追加廃止承認され、国鉄分割民営化後の1989年に廃止された(沿線自治体は第三セクターによる鉄路維持を検討していたが、鉄路維持の場合は運営基金が7年で枯渇するという試算があり、バス転換に同意したもの)。
【転載終了】
厚床駅は、この支線が廃止されるまでは、分岐の駅でたいそう賑わっていたようで、青春18きっぷのポスターで撮影されたベンチや転車台の跡なども残っており、郷愁を誘っている。
厚床駅を出発して、明治乳業横の道を歩く。ここは厚床フットパスの道でもある。
そして、国道44号線の下を通り、しばらく行くと厚床フットパスのクライマックスの「もの思いにふける丘」の牧草地を横目に、廃線跡を歩いていく。しばらく歩くと国道243号線を横断する。ちょうどここは明郷☆伊藤牧場の北側の当たりだ。ここからは明郷フットパスの中であり、しばらく歩くと風連湿原に出た。ここは国道から西側にいつも見えている土盛りである。快晴の下、湿原の中を歩いていく。ところどころに鹿の横断跡らしき道がたくさんあった。
快適な湿原歩きの跡、風連川鉄橋に到着。橋の鉄網の上を歩いていくのだが、結構な高度感があり、高所恐怖症としては非常に怖い。下を見ないようにして、前を見てようやく渡り切る。
橋を渡ってしばらくすると明郷フットパスは終了。この辺から管理が行き届いていないのか、笹や草が生え始め、また、一か所大崩落があるなど、道が悪くなる。
それでもしばらく歩くと、残っている鉄路が出始め、奥行臼駅に到着。ここは、昭和の駅の雰囲気が残っており、小休止。
奥行臼駅からまた国道を横断すると、ここから別海フットパスと言われる道に入る。ここから熊の生息密度が濃くなると思われる地域で警戒が必要だ。近くの国道には「熊出没注意」の看板がよく掲示されるところである。ここまでは道のどちらかは牧草地だったのが、両サイドが湿原や森になり鬱蒼とし始める。まあそれでも道はそんなに悪くなく、快適に歩くことができる。
しばらく歩くと、牧草地帯に出た。一か所牛が放牧されている場所があり、とても綺麗である。また、見渡す限りの牧草地帯もあった。
途中3か所の橋があったが、きちんと渡れるように整備されている。最後の橋はポンヤウシュベツ川を渡るものであり、看板がレトロなものが残っている。
別海の街に近くなると、樹木が大きくなり、しばらく森の中を歩くと、雪印メグミルク別海工場の裏手に出て、別海の街に出た。
整備された遊歩道を歩き、西別川の橋を渡ると、ゴールの旧別海駅=別海バスターミナルに着いた。
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