大丸縄文の遺跡・境木地区の史跡

その他旧街道・旧道

平成24年(2012)3月25日(日)11:00頃~13:00頃

 今日は、午前中引っ越し準備をした後、天気も良く、少し時間をもらえたので、横浜市内で行っていない道を走ることに。懐かしい旧東海道の権太坂、武蔵の国と相模の国の境目の旧道などを思いもかけず、走ることができた。

 井土ヶ谷駅から遊園地道路という道を走り、坂を上りきると大丸縄文の里というところにたどり着く。住宅地を開発するときに、土器などが発掘されたという。この辺は、、約1万年前の縄文時代初期の部落だったのではないかとのこと。 

【大丸縄文関係の史跡】石碑・説明板
 六つ川台小学校と六ツ川中学校に挟まれた坂下からこども植物園方面を結ぶ「大丸縄文坂」。坂名は大丸式縄文土器で知られる近隣の大丸遺跡に由来する。南区六ツ川三丁目付近にあった大丸遺跡は、約9千年前の縄文時代早期の集落の遺跡で、昭和26から27年にかけて明治大学考古学研究室により発掘調査され、多数の土器や礫器が出土した。出土した土器の中には、撚り紐を巻きつけた棒を転がしつくる撚糸文という模様が施され、底が尖った尖底土器があり、地名にちなみ大丸式縄文土器と命名された。遺跡からは魚の骨やサメの歯も発見されており、温暖化が進んだこの時代にはこの丘の近くまで海が入り込んでいたことを示しているという。大丸遺跡はその後の宅地開発により失われたが、発掘した土器などは明治大学考古博物館で保管されている他、六ツ川台コミュニティハウスでも資料や土器が展示されている。坂はかなりの急坂で、谷底近くの急勾配では車が坂に張り付いているようにみえるほど。坂の途中に鉄塔が立つ箇所は島状になっていて、ここだけ道路が二手に分かれているのも珍しい。急勾配の深いV字型地形、鉄塔、電線、2カ所の島などが相まってつくる風景はどこか懐かしくもシュールな雰囲気の空間で、夢に出てきそうな独特な風景の坂道。

 国道一号から東戸塚に向かうと、境木立場にたどり着く。立場とは、宿場間の休憩場所であり、このあたりが、権太坂の頂上付近となる。(標高差約80m)特に、坂が険しいこのあたりには茶屋があり、旅人の疲れを癒していた。また、かつての武蔵国と相模国との境目であり、現在では広場ににモニュメントの境木が建立されている。

【境木立場跡】
 宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。

 品濃一里塚公園の反対側にも塚らしきものがあるが、私有地につき立ち入り禁止となっている。

 梅の木の向こうに東戸塚のビル群。東戸塚駅を横断し、駅を振り返る。 川上町沿いの小川のアメニティを走る。梅がきれいだ。この後、ゴルフ場の中を走る。

 道を登りきったところが、都塚。ここから富士山、大山などが一望できたという。今は木々で展望はないが、大山は少し見えた。西武州、南鎌倉と書いてある。この地は武蔵と相模の国の境目だったそうだ。

 こども自然公園の入り口は、昭和53年までは三叉路で、西は大山道、南は鎌倉道、東は不明だったそうだ。こうしたところにも歴史を感じる。万騎が原中央商店街を経て、二俣川駅から相鉄線で家に帰る。 

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