平成24年(2012)8月12日(日) 14:30森市街~16:30実家
今日は、実家の墓参りの後、森の市街から海岸沿いを尾白内市街まで走り、白川を抜けて、旧国道を通り、実家まで走る。後半は晴れて暑くなりました。
日蓮宗一妙寺から海岸線にでると、ニチレイ森工場。唯一のデカイ大企業だ。なんとここは日本冷凍食品発祥の地だったのだ。しらなかった。しかも、そのときの冷凍装置も展示されている。当時は炭で動かしていたそうだ。
【日本冷凍食品発祥の地】森町字港町34
大正9年(1920)8月25日,山口県の人葛原猪平氏が森沿岸の 豊富な魚に注目し,当時人家もほとんどなかった港町に我国最初と なる,最新設備の冷凍食品工場が建ちました。
当時の冷凍魚は,マグロ,ブリ,イカ,サバ,イワシ等で,翌10年には 東京方面に出荷されました。
昭和44年9月,創業50周年を迎えて記念碑が建立されました。
半世紀にわたり活躍して来た冷凍機械は現役を去った後も, その歴史的価値が認められて昭和48年9月1日,森町の指定文化 財(第2号)となり大切に保存されています。
昔野球の試合をした旧尾白内中学校の跡地はパークゴルフ場になっていた。また、ここは尾白内貝塚でもあったとは。
【尾白内貝塚】ネットより転載
尾白内貝塚は続縄文時代の遺跡です。標高は10~11mであり、森町内に存在する遺跡の中では最低位置に位置しています。現地は旧尾白内中学校の敷地内であり、現在はパークゴルフ場となっています。尾白内貝塚は、昭和25年に地元の小学生によって土器片が発見されたことを契機に、昭和26~28年に東京大学文学部考古学教室の駒井和愛教授、同大学文学部助手の中川成夫氏、早稲田大学文学部助手の櫻井清彦氏らによって発掘調査が行われました。この時の調査によって土器や石器、須恵器、魚類・獣類の骨、骨角器、人骨などが発見されています。その後、昭和33年に櫻井氏によって第4次調査が行われています。
この時に発見された遺物は全て東京大学、早稲田大学に送られていることや、総合的な発掘調査報告書は刊行されていないことから、調査地点や出土した遺物の詳細は不明なままとなっています。第1次調査の際に、雨天で発掘作業が行えなかった初日に、櫻井氏、中川氏によって講話が行われています。講話を聴きに集まったのは尾白内小中学校の生徒、職員及び函館市から300余名とあることから、尾白内貝塚の発見と調査はよほどの出来事であったと考えられます。昭和28・30年に尾白内中学校から「尾白内貝塚について」、「尾白内貝塚」と題された調査概報的な冊子が刊行されており、尾白内貝塚から発掘調査に至るまでの経緯が丁寧に記されています。また、昭和27年には函館東高等学校の考古学部が独自に発掘調査を行い、土器片や石器、骨角器などが発見されています。報告書が刊行されていますが調査によって発見された遺物は森町に残っていません。
その後、昭和55年、平成4年に町道整備に伴う発掘調査が森町教育委員会によって行われています。調査によって墓とみられる遺構や土器、石器、貝類、鳥類、海獣骨等が発見されています。発見された哺乳類はイルカ類、アシカ類が多く、ヒラメ等の魚類の骨も多く出土していることから、尾白内貝塚では海での生業活動が盛んに行われていたことが考えられます。平成4年の調査で発見された墓からは石鏃46本が2列に並べられた状態で発見されました。この他に、壺形土器に浅鉢土器を被せた状態で発見された埋設土器や、擦文期以降の所産であると考えられる空堀が発見されています。
旧道に入ると三軒茶屋跡がある。ここにはもう3軒の茶屋すらない。碑文の概要は次のとおりだが、結構古い。
【三軒茶屋】
弘治年間(1555年、室町時代末期)、茅部地区の鯡を求めて、箱館から多くの漁師が出入りするようになり、やがて茅部場所という漁場ができて、交通量が多くなると、やがて茅部街道と言われるなりました。街道筋の要所には茶屋ができ、この三軒茶屋にはお茶、酒、駄菓子を求める人で賑わいました。
明治期になると、この道路を本格的に改修し、明治36年に鉄道が開通するまでの間、札幌~函館間の道路になりました。
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