旭山・東旭川

山登り

令和3年(2021)3月28日(日)

旭山公園駐車場~旭山(295m)~東旭川市街(拓源の碑、旭川神社)往復

距離:9.5㎞、1時間36分

 旭川でのランニング二日目。今日は旭山動物園横の旭山公園に車を停めて、旭山に登ることにする。登山道は舗装されていて、雪は溶けてなくなっていた。登り始めるとすぐ、お堂のようなものが見えてきた。旭川立木大師堂だそうだ。ネットで由来を検索すると次のとおり。

【旭川立木大師堂】
 阿波の国の仏師であった福山礼蔵という男が大正9年春にこの地に飄然と現れた。後に旭山寺の檀家となる川上儀太郎宅に数日寄留するうちに昼間から飲酒するようになり川上氏は困り果てていた。飲酒のあと夜な夜などこかへ出かけて行く礼蔵を不思議に思っていた。:毎夜、寝所を抜け出した礼蔵は、蝋燭の火を頼りにノミ一丁で直径1.5mの楢の大木の中腹に大師像を彫っていたのだった。礼蔵は人目につかないように真夜中を選び、地上6mもの高さに大師像を刻みつづけた。 それから4か月たったある秋の日、礼蔵は忽然と姿を消した。後日、この像を見つけた川上氏は村の有志らに呼びかけ浄財を集め、開眼法会を執行した。その後、昭和5年の台風によってこの楢の大木は大師像の上近くから折れてしまったが、昭和30年建立の堂の中で今なお「旭山立木大師」として人々を守りつづけている。

 登っていくと山頂直下に神社がある。旭山稲荷金比羅神社だ。人は住んでいないようだが、お参りはできる。大木の周りにヒマワリの種がたくさんあり、人に慣れたリスが近寄ってくる。古い説明板から抜粋を転載。

【旭山稲荷金比羅神社】
 旭山ははじめ登り口右側の崖を屯田第四中隊の射的としていたので、射的山と呼ばれていたが、明治31年秋熊本県出身の菊地直人退位の屯田第四中隊長として着任すると早々高見庄吉軍曹や芦原伊佐男宮司等と共にこの山頂に登り四面一望の景勝地であることからここに神社を建て一大公園にすべしと決意し大樹の幹を削って天照皇大神宮大書した。これが旭山開発の第一歩である。
 次いで明治32年この大神宮の分霊は旭川神社に奉斎され、明治36年内宮外宮の完形になぞられ、豊受大神の同系神たる稲荷神社を奉斎し、これより永く稲荷山と呼ばれるようになった。
 さらに明治42年社殿造営の機械に金比羅宮と合祀し昭和2年、旭川神社の旧本殿を譲り受け、昭和11年社殿の修繕並びに社務所を新設し、現在に至る。この間難病平癒、商売繁盛、社運挽回等あらたかな霊験を受けた実例は数えきれない。
(以下、略)

 頂上にはテレビのアンテナ群が林立していて、その尾根の向こうにある石碑が頂上のようだ。
 頂上をあとにして下り東旭川の市街に向かう。途中「拓源」の石碑があり、裏の説明板に水田開発、水路開発の歴史が書かれていた。以下、抜粋・骨子を転載。

【拓源】
 東旭川の水田開発は屯田兵入地の翌年明治26年井戸水で試作、幸いに当熟を得たので、翌27年に兵村事業として倉沼より2180mの溝を開いた。これが現在の第二幹線で、上川管内の灌漑溝の最初である。
 この後、明治31年大通り沿いに進められ、難波田川に達し、第一幹線は南5丁目を起点とする南端道路沿いの溝路もこれと前後して開かれ、倉沼川二条の水路は完備し、ここに本地区水田開発の基礎が築かれた。
 しかし、この溝は素掘りのため水害を始め交通の支障もあり、昭和5年に恒久的改修をしたが、戦後損耗がはなはだしく、、市街の発展を阻み、灌漑を妨げるに至り、その筋に要請し、紆余曲折を経て、昭和36年に着工、延長4753m、1億2千万円をもって永久改修を行い、昭和40年に竣工。(以下、略)

 拓源碑のあと、東旭川市街に向かう。東旭川駅を訪問後、旭川神社に向かう。ここに東旭川開村記念碑があり、これの概略を転載させていただく。

【東旭川記念碑】
 明治7年国会の屯田兵制度を北海道に布くや府県の壮丁を募り之を要地に移し、兵を練り辺を守り地を拓き産に就かしむ。25年募るところ京都43戸、埼玉1戸、滋賀15戸、岐阜11戸、青森46戸、秋田30戸、富山28戸、香川89戸、愛媛95戸、大分41戸、鹿児島1戸を石狩国上川郡旭川原野に置き屯田兵第三大隊三、四中隊となす。第四中隊は東にあり之を上兵村と言い、第三中隊は西に在り之を下兵村と称す。実に8月15日にして是東旭川村の濫觴なり。当時荊棘榛羆熊の叫ぶところ狐兎のいる所森林天日を覆い未だ人跡あらず。而して壮丁400人兵役に服するの暇家族2千有余人と拮居勉開墾に重視し遂に能く其の功を成せり。既にして他府県の移住者年を遂うて多きを加え今や1800余戸8500余人一大村落となる之を往時に比するやあにいまだに天淵のみならんや是固より兵村田を力むるの抗と雖も抑々亦国家??の余沢なり因って其の功定を略叙すること左の如し。25年10月尋常小学校2校を興し30年3月合して尋常高等校として之を兵村中央に置く費4147なり26年5月村社を建て旭川神社と号し30年拝殿を増築す。27年11月灌漑溝を繋ぐこと208間費280円なり、是の年試みに水稲を種え頗る豊穣を得是に於いて衆争って種う。上兵村は34年、下兵村38年皆官准を経て溝渠を開き忠別河水を引くこと凡そ7810間費20620圓遂に田3千余町を得歳に米6万余石を産す。日清の役起こるや28年3月屯田兵出征し進んで東京に至るも未だ幾ならずして和成り乃ち罷めて帰る。29年6月旭川町に至る道路を開き尋いて東川当麻永山の諸村に至る者皆成る凡そ76510間費10万余圓。30年官本村を永山村に属し牛朱別と称せしむ。民不便として初に分離を請う9月乃ち更に東旭川村と為す。33年官東旭川東川二村組合役場を本村に設置す。37年9月屯田兵制廃せられ後備屯田兵統べて在郷軍人と為る。日露の変を開くや本村軍人の従軍出征者500人進んで旅順奉天を攻め又北韓を伐って功あり戦死30人負傷150人各賞賜あり。39年4月2級町村制を6月始めて村会を開く。是に於いて官上下部落をして各別に其公有財産を管せしむ。既にして部会各事を議し財を理するは村治を害し発達を防ぐるをの處あるを以て、相謀って官に請い部会を廃し耕地50町を以て本村基本財産と為し、又修路費23320円学校新築費7千円を出す。開村始めて一致協和益々其の業を務るを得るに至り、遂に相謀って碑を建て開村以来の沿革を記し併せて戦しょう記念と為し以て後人につなぐ。このごろ建設委員来りて余に文を請う。余為に其の言う所の梗概を書し係くるに銘を以てす。曰く。
 侮を禦ぐに兵を屯し 民を植するに田を墾す ・・・・・。

 文字起こし疲れた。

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