本別海

古木

別海町(本別海)

(約12.7km、約1時間40分)
 平成30年(2018)12月1日(土)
 
 本日は本別海の漁港に車を停めて、この街の近辺にある史跡を走って訪問することに。
 まず最初に伊能忠敬の日本最西端の地を目指すことに。この地は街から国道を戻り、西別川を渡ってから、走古丹に行く道を目指すとまもまく木の標柱とともに説明板があった。

【転載はじめ】
 第一次伊能忠敬測量隊到達最東端記念柱について
 千葉県佐原の人、伊能忠敬は四十九歳で長男に家督を譲り隠居しました。隠居後、暦学や天文学を修め、当時不明だった地球の大きさ、つまり緯度一度の距離の計測を意図します。当時北海道周辺にはロシア船が出没し、騒然としていましたから、北海道の正確な地図を制作するという目的もありました。
 ニシベツ到着は1800年陰暦の八月七日、現在の歴では九月二十五日です。折から浜では徳川将軍家へ献上する鮭漁が盛んで、船の手配ができませんでした。このため、ネムロ・クナシリでの測量を断念し、この地で最後の測量をして引き返しました。
 以後、伊能測量隊は1816年まで日本全国を十次にわたり測量し、「大日本沿海與地全図」が完成したのは伊能忠敬死後の1812年でした。ニシベツは十七年次十次に及ぶ伊能測量の最東端であり、聖地ともいうべき地であります。
 ここに、記念柱を建立し伊能忠敬の偉業を偲ぶとともに測量を行った最東端の地を後世に伝えるものであります。
 2004年7月 伊能忠敬研究会  別海町伊能忠敬記念碑建設期成会
【転載終了】

 次に引き返して、道道を別海町の本町の中心街に向かうことにするが、川の向こうに一本松を発見。あの一本松を訪問し忘れた。あそこは伊能忠敬の標柱のもう少し先だったのだ。しかし、もうあとの祭りでそのまま別海町の中心街に向かう。しかし、数キロ走ったところで、限りなく果てしなく原野が続き、熊いるかもしれないので、少し怖くなったので引き返し、さきほど忘れた一本松に向かうことにする。その松は、伊能忠敬の標柱から少し行ったところにあった。文字通り一本のみ生えているが、それは明治初めに東北から入植した人が植えたものだという。説明板から転載。

【転載はじめ】
 別海町指定文化財 本別海一本松
・所在地 本別海3番地23    ・指定年月日 平成6年2月18日 
・規模・数量等 樹種:グイ松、樹齢:約120年

 明治7年、東北各地から漁夫数百名を募集し、西別川において本柳田の番屋の祠の横に植生したもので、2、3本あったが現存する唯一の一本であり、別海発祥の地の本別海の歴史を物語る貴重な文化財である。
【転載終了】

 今日は距離が少し足りないので、走古丹の方に少し走って、本別海に戻ると交差点のところに、別海村発祥の地碑があった。裏面にびっちり由緒が書いてある。今日は小さな集落なのに、説明板が満載だ。

【転載はじめ】
 広く?実に全国に冠たる我が別海村は、遠く元禄年間、松前藩の所領として藩主矩広の時代に漁業を以て拓く 武川久兵衛 高田屋嘉兵衛をはじめ幾多先人苦闘の風雪二百有余年明治の御代に至り藤野喜兵衛 柳田藤吉などにより西別川河口を中心とする鰊鮭鱒漁場の開発が盛んに行われ 明治二年開拓使設置同十年缶詰工場の設置を見 全国最初の缶詰製造事業が行われるや 和人の移住者が九十余名の多きに達し、別海市街地を形成 行政 文化 産業の中心地として商家は軒を連ね 根室管内有数の繁栄を誇るに至り 暫らくして今日の近代別海村発展の基礎を築くに至った。
 昭和九年北海道第二期拓殖計画の実施に伴い村行政庁西別への移転あり、以来酪農業を中心とする総合開発の施策は年と共に目覚ましく 一大酪農王侯の現出せしめ 又大正末期より衰退しつつあった水産資源復活えの努力が漸し実を結び昔日の繁栄を取り戻しつつある
 近年熱烈たる郷土愛を発して開村の歴史を辿る声???にして起こり、別海村長と相諮り本村有志各位の協賛を得て本村発祥の由来を以後末永く???とし、ここに本碑の建立がなされた。
 昭和四十五年九月吉日 
 建立者 別海村長 別海漁業協同組合長 ほか有志一同
【転載終了】

 次に、別海漁協を訪問するとその向かいには「旧開拓使別海缶詰所」があった。
 別海町教育委員会のホームページから転載する。

【転載はじめ】
 この建物は、開拓使が1878(明治11)年 に設置した缶詰所の一部で、本町に残る最古の木造建造物であり、開拓使が設置した缶詰所の中で唯一現存するきわめて貴重な産業遺産です。
  別海(現本別海)に設置された缶詰所は、前年の石狩缶詰所設置に次ぐもので、我が国における缶詰の歴史の始まりといえます。アメリカの先進的な缶詰製造技術を日本に導入するため招かれていた「お雇い外国人」トリートらも別海へやってきて、缶詰製造の指導にあたりました。
 開拓使は西別産の鮭を「第一等」で「身色紅ヲナス美味最抜秀」であると絶賛していました。この最高の鮭を使えば、外国の缶詰にも負けないおいしい缶詰を作ることができ、当初の目的である物産の拡張と海外への輸出ができると開拓使は考えていたからです。
 1887 (明治20)年、官営別海缶詰所は民間に払い下げられ、藤野別海缶詰所として再出発します。海軍からの安定した注文に加え、日清戦争が始まると陸軍からも注文が入るようになり、別海工場は製造能力を3倍にしてこれに対応しました。また、兵士たちが缶詰のよさを郷土で宣伝したために、缶詰の知名度と需要は全国で一気に上がりました。別海以外にも続々と缶詰工場がつくられ、根室地方の主要産業にまで成長することになります。
 戦後、缶詰所の建物は一部改築されて別海中学校の校舎となり、現在は別海漁協の倉庫として使われています。
【転載終了】 

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