湧別町・五鹿山

スキー場登り

令和5年(2023)8月11日(金祝)約19km 3時間12分

中湧別チューリップの湯~屯田兵の碑~五鹿山125.5m~農道~湧別町東地区開基百年碑~湧別停車場サロマ湖線~湧別町~国道238~242号線

実家の札幌に帰る前に、吉方の北方の湧別町を走ってみる。中湧別のチューリップの湯に車を停める。この地は湧別原野クロスカントリースキーのゴール地点であり何度も訪問しているが走ったことはなかった。最初の目的地は五鹿山である。五鹿山スキー場に行く途中に石碑を見つけた。屯田兵関係の史跡である。

【屯田兵関係の史跡】「第5中隊練兵場及び事業場跡」の横に「屯田兵第五中隊兵屋の跡」の碑と「顕彰碑」の碑があった。それらの裏面には「明治35年5月33戸、同31年9月36戸の屯田兵が入植した兵屋集落の跡である。昭和61年9月29日 湧別屯田会建立」と書いてある。もう一つの方は「昭和39年11月3日五-二部落会建設」と書かれてあり、入植者の氏名が刻まれていた。

 その次に五鹿山スキー場のところの五鹿山を登ることにする。YAMAPの記録を頼りに登る。キャンプ場の管理人に熊は大丈夫かと聞くと「今のところは」と言う。まあ大丈夫だろうと考えて、林道を登っていくとあっという間に頂上=リフト降り場に到着。その裏の階段状のところを登ると三角点もあり頂上だった。頂上からは湧別原野の田園風景が広がった。

 山を下りて農道の方に向かうが、展望台に上る階段がある。スルーしようと思ったが、ネットを見ると頂上に石碑があるようなので、登ってみることに。頂上に石碑が二つあったが、何と書いているがわからない。軍曹や伍長と刻まれていることから、これも屯田兵関係の石碑だろうと推測し、下山する。

 農道を真っすぐと北に向かう。デントコーン畑と酪農家が軒を連ねる。自治会館があり、そこに「開基百年碑」があった。

【開基百年碑】表面には「開基百年碑」「湧別町東自治会会長井戸定利書」と刻まれ、台座には次のように刻まれていた。「私達の郷土東地区は、北はオホーツク海に面し、東は日本三大湖の一つサロマ湖、南は福島地区と上湧別町六号線、西は錦町、東1線を境に原始林と一面湿原の未開地であった。明治24年湧別原野区画測量が実施され、東西約5km南北3.3kmの築に151区画(一区画5町歩)の入植地割計画が行われ明治29年(1896年)湧別原野東植民地貸与の告示により入植が始まった。明治29年頃の入植者・・・氏名略・・・の各氏が入地し農耕の一鍬が入れられたのを開基とする。以来未踏の地で風雪に耐え開墾が進められたが、地味悪く定着者は少なかった。昭和7年水田耕作が始められると同時に各地より入植者が相次ぎ人口も急増した。然し此の地は水稲の北限地帯のため冷害凶作に悩まされ、昭和39年(1964)酪農に切り替えるべく地域一丸となって水田廃耕を決議し経営転換への偉業を成し遂げ、百年の星霜を重ね今日の理想郷を築いたのである。多くの先駆者のご労苦と英知に深く感謝しこの地に生きる誇りと喜びを胸に栄光ある歩みを受け継ぎ輝く決意を新たに、この碑を建立する。平成7年11月25日 湧別町東開基百年記念事業協賛会」

 開拓の歴史を堪能し、海岸に到着すると「湧別番屋跡」の説明板があった。記念碑はここから東方700mとあるが、見つけられなかった。

【「湧別番屋跡」碑文】松浦武四郎この地を歩む。寛政10年谷口青山絵図に現れる湧別番屋、阿部屋博兵衛の業績、これゆうべつ漁業の先駆なり、代々場所請負漁業者 藤野屋等々連なり繁栄、他を寄せ付けず、妬み、裏切りを越えて明治に至るもその傍らに番人奸商の横暴、未開北海岸の地に至る夷人、漁労に狩り出されやがて酷労に身を潰し、夷女遊ばれ身を沈める苛酷の生涯、慟哭の世にあるを北海道を探査した松浦武四郎が糾弾。「後々有志の士有らば是を糸口として調べ英断ナシ給はば北海岸百余里の荒涼もまた何時か区畦の訴訟を開くべき時もあるべきやと・・・・・」認めるはユウベツに宿してなり。その暴挙を戒め武四郎自らを「北海」と号し北海岸の地に生きるアイノー達と共に在りを表す。蝦夷地名、北に生きる道「北海道」とと改称されるは北海翁の意の致すところ、よってユウベツ村草創の地を記念し湧別郷土史研究有志之碑を建立する。2018年5月吉日。

 この湧別の地が北海道の名付けのきっかけになったのだと感慨に浸り、湧別漁港に向かうとまた新しい碑があった。

【湧別原野入植者上陸之地】碑・・・裏面には次のとおり刻まれている。「湧別原野殖民地入植。明治になって北海道開拓の機運急を告げ、国防、開拓の要から、湧別原野は明治22年殖民地選定、24年には区画測設がなされた。明治15年には入地者がみられるが、25年自由移民資本家の開拓殖民地として始動した。明治二十年吉田喜代作等が湧別浜上陸を始め、30年芭露に奥三十郎団体、30年、31年には学田地開拓団と湧別屯田兵が、さらに以後十余年にわたり多くの先人達がこの浜地に上陸し入植。湧別原野の開発の原動力として大きく貢献された。この地はオホーツク海漁場の開設、湧別原野開拓がなされた草創の地である。この大地に立ち向かう勇気と決断、過酷は深遠そのものと察し、先駆者の労苦があって湧別原野の今日あるを永遠に憶うものである。ここにその子ら意を寄せ合い上陸地記念の碑を建立する。平成20年10月30日」

その後町の中を散策すると「湧別警察署の跡」、「百貨店の跡」を見つけた。そして湧別神社(明治27年創建)にお参りし、駐車している車に帰る。

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