令和4年(2022)7月21日(木)
熊本市:熊本城
熊本市に宿泊。朝早く起きて熊本城まで散歩した。走るまでもなく近かった。
まだ開門前だった。今度ゆっくり来たいものだ。
【熊本城】 熊本城ホームページより転載。
熊本城を築城した加藤清正(かとうきよまさ・1562年-1611年)が肥後に入ったのは、27歳の時でした。尾張(現在の愛知県西部)出身で、豊臣秀吉(1537年-1598年)とは、双方の母親がいとこ同士だったという説があります。 肥後に入った後の清正は、長引く戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために、治山治水(ちさんちすい)工事や、水田の開発などに力を入れます。その工事の功績はたいへん大きく、現在でも現役で利用されているものがあります。また、南蛮貿易に取り組むなど、領地経営を積極的に行うことで、肥後は豊かになりました。そのため、加藤清正はやがて領民から神様のように慕われ今でも「清正公(せいしょこ)さん」と熊本県民から親しみをもって呼ばれています。
豊前小倉城の城主だった細川忠利は、2代にわたった熊本城主の加藤家が改易された後、肥後に入国しました。細川家は、織田信長(1534年-1582年)、豊臣秀吉(1537年-1598年)、徳川家康(1543年-1616年)に仕え、戦国の世の中をくぐり抜けてきた大名家です。 細川忠利の祖父である幽斎(ゆうさい)は、当代一流の文化人として名を馳せ、父の忠興(ただおき)は、茶人としても知られ、千利休(1522年-1591年)の弟子でもありました。その血筋を受け継いだ忠利も文人であり、武道にもすぐれた才能をもっていました。江戸時代の有名な武士のひとりである宮本武蔵(1584年-1645年)が晩年を熊本で過ごしたのは、この忠利が客人として招いたからです。
海外でも知られる「五輪書(Book of five rings)」の著者であり、江戸時代の有名な剣豪宮本武蔵は、寛永17(1640)年57歳のとき、藩主細川忠利に招かれ、現在の千葉城(ちばじょう)町付近で晩年を過ごしたと言われています。武蔵がここ熊本で創始した二天一流兵法(にてんいちりゅうへいほう)は現在も二刀流の剣術として継承されています。また茶、禅、書画にも通じた文人として日々を送り、その作品は島田美術館や永青文庫などに所蔵されています。正保2(1645)年62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり細川藩主の江戸参勤交代を臨む豊後街道の林の中に甲冑姿で葬られたといわれています。
明治10(1877)年2月におきた西南戦争で、熊本城は50日あまりにも及ぶ籠城戦の舞台となりました。 城内には熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき)率いる鎮台兵3500人が籠城して薩摩軍13000人と戦い、熊本城は近代戦を経験した城となり、また難攻不落の堅城であるということを名実ともに実証しましたが、開戦直前に天守と本丸御殿一帯が炎に包まれました。原因には放火・自焼などいくつかの説がありますが、いまだに特定はできていません。 熊本城二の丸広場や髙橋公園などでは西南戦争にまつわる石碑や銅像を見ることができます。明治の軍人を偲んで熊本城域を散策するのもまた一興です。
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