平成28年(2016)7月17日(日) 家~琴似~発寒神社~新川と琴似発寒川の合流地点~琴似発寒川沿いを上流へ~琴似~家 約12km 2時間分
次男が太鼓の達人の世界大会にエントリーし、午後からニコニコ生放送で放映があるため、午前中に走ることに。
今日の目的は、発寒神社から琴似発寒川と新川の合流地点まで走り、琴似発寒川の河川敷を遡って帰ってくること。
まず手始めに、琴似に向かい、西区役所前の琴似屯田兵関係の石碑をチェックする。
家から近いので、チェックが遅れ気味だったが、琴似は北海道の中でも大きい屯田兵村の部類で、史跡も数多く残っている。
石碑が五つあり、向かって左から次の通り。
【琴似屯田兵顕彰碑】
開村50周年とこれに功績のあった屯田兵を記念して、琴似兵村50年記念碑が、大正13年(1924年)、現在の琴似神社内に建立された。
その後、同塔は老朽化により取り壊されたが、屯田兵の偉業を後世に伝えるため、平成11年(1999年)9月屯田兵の子孫者有志によって、この碑が新たに建立された。
【屯田兵本部址】
開村50周年を記念して、大正13年(1924年)現在の西消防署琴似出張所北東角に建立される。
【琴似屯田開村記念碑】
北海道で始めての屯田兵が琴似地区に入植し、その後琴似村へと発展した経緯と、屯田兵の功績を記念して明治30年(1897年)1月、現在の琴似神社拝殿付近に建立される。
【陸軍屯田兵第一大隊第一中台本部の址】
紀元2600年を祝して、昭和15年(1940年)現在の西区役所の北西角付近に建立される。西区役所は中隊本部跡地にあたる。
【琴似屯田兵100年記念碑】
屯田兵が入植して百年となることを記念して、昭和50年(1975年)9月30日、西区役所前庭に建立される。
その後、発寒中央駅近くの発寒神社にお参り。ここは、以前も来たことがあるが、由緒を見てみると安政3年であった。
【発寒神社由緒】
祭神 豊受大神
安政三年 蝦夷地開発の幕命を帯びて山岡精次郎主計守以下17名 この地に移住し即ち稲荷社を創建して祭祀を篤くし北辺開明の基をひらく。 明治8年(1875)、北海道屯田兵の第一陣として、32戸この地に入植されるや社運愈々興り、 明治31年12月宗祖と崇められる伊勢大神宮より、豊受大神の分霊を拝賜、同32年3月神社明細帳にに記載。 同36年1月北海道石狩国札幌郡発寒村稲荷神社から、発寒神社と改称、北海道庁長官より認可される。 尚当境内地に古代遺跡(十世紀前後)の墳墓及環状列石(ストーンサークル)がある。
【ストーンサークル】石碑から転載
史跡の復元について
先住民族の遺物は発寒地域より数多く出ているがこの環状石垣は昭和7年11月、この地より発掘された当時の王の墳墓の跡と思われる。
推定800~900年以前のもとである調査の記録に基づいて、大体復元したが、使用した碑石及び石垣は発掘当時のものである開道100年、天皇皇后両陛下の本道行啓を記念し、有志相謀りこれを建立せり。
昭和43年戊辰9月
その後、発寒から新川方面に走るが、この道は国道や下手稲通とは斜めに交差している。これを自分なりに推測すると、琴似発寒川に並行しているので、昔の人は川沿いに道を作り、跡から国道や下手稲通ができたのであろう。
帰りは、新川と琴似発寒川の合流地点から琴似発寒川を琴似まで遡り、家まで帰りました。
コメント