發寒開邨紀念碑等

石碑等(開拓記念碑)

札幌市西区発寒 「發寒開邨紀念碑」、「永田休蔵之碑」

令和3年9月2日(木)7.5km 1時間22分

 発寒中央駅の近く、発寒小学校と西消防署に挟まれた春日緑地のところにある記念碑二つを訪問した。「歴史のあしあと札幌の碑」さんから石碑の内容を転載させていただく。

【發寒開邨紀念碑】
 石碑はいびつな三角柱の形状をしており、その背面の一面には細かい文字が刻まれていますが、背景色と同化していて読み取りにくくなっています。資料によると、碑の背面に細かく刻まれた文字は、おおむね次のような内容によるそうです。
「北海之地茫乎榛莽耳?葦耳欲開之興國利者非有不屈之勇而出於至誠不能也安政三年幕府士山岡主計頭以属吏來此地募聚農十七八戸創墾拓稱曰發寒邨發寒夷語所謂婆遅屋牟即小椋鳥義也盖此鳥以多在也主計頭奬勵夷與募民欲達其志塞其責事竟不成歸時慶應三年也而其存者僅三四戸至明治九年始移屯田兵三十二戸今也闔邨至四十戸之多墾拓進歩洵著矣前後所墾之地大凡百町餘乃茫乎榛莽?葦之地忽焉變爲百穀??之田可謂勉矣其所産以麻苧爲最繭絲亞之擧邨奮然相競尚進欲擴張墾地之區域嗟可謂熾矣近者同邨人來請辭於予乃依其言屬文茲邨人醵金建碑以爲記念
札幌農學校助教授 山崎 益 撰」
 別の一面には、「明治二十有六年八月十五日建設」と刻まれています。

 碑の脇に立てられた新しい説明板には、「開村記念之碑安政4年に、山岡主計頭さんが永田休蔵さんらと農家、17?18戸をさそいこの土地に住み荒れた土地をきり開いた。その時、この土地を発寒部落とよぶようになり、その後多くの人たちがこの土地に住みつくようになった。そこで安政4年を発寒の始まりと決め永く伝えるためにみんながお金を出し合ってこの記念碑をたてた。」と記されています。

【永田休蔵之碑】
 開村功勞者 永田休蔵之碑」と刻まれ、その左に小さく「北海道帝國大學總長佐藤昌介書」と添えられています。
 台座の正面には、35人の「屯田兵氏名」が「家屋順」に刻まれています。また、台座の左右の両側面には、「寄附人名」の一覧がそれぞれ刻まれています。台座の背面には漢文が刻まれ、それには次のように記されています。
 「永田君休蔵江戸幕府之士也安政四年與同志山岡精次郎大竹愼十郎弓氣多源之丞秋場熊藏鈴木顯助輕部傳一郎等渡道直從事當地方之開拓焉當是時此地方也人跡未到老樹蓊鬱晝尚暗〇委羆熊豺狼之蹂躙耳事業之困難可推知也然君毫無屈撓色犯危險觸風雨一意期初志之貫徹矣冬日偶々至石狩歸途遇大風雪遂卒享年四十五矣嗚呼君爲當村開發〇一命也然君靈必言我豈惜一命哉獨憂事之不成而己明治九年五月二十一日有屯田兵三十二戸移住後更加ニ戸皆克継前者之遺業拮据經營以至見大正今日本村開拓之進展今也如此君可以瞑也今茲屯田兵移住五十年同志相會深追想其功績而爲慰其靈建碑以傳不朽云
 大正十四年九月十五日 發起人 (六人氏名)」
 碑の脇には、小学生に向けたものと思われる説明板が立てられており、それには
「永田休蔵之碑
 1857年4月に同志山岡精次郎さんらと共に、在住の中心として入地した永田休蔵さんは開拓のため、熱心に尽力された。その年の11月に大竹慎十郎さんと二人で石狩からの帰り道冬の海岸で強い風雪にあいなくなられた大正14年発寒屯田移住50年にその功績を追想してたてられる。」と記されています。

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