端野の史跡

旅ラン

平成30年7月1日(日) 北見市端野総合支所~端野と北見の境界~端野水田発祥の地

 7.1km 56分
 
 北見に宿泊後、根室に帰ることにするが、雨の予報なので、当初考えていた網走市内散策ランニングを止めて、早朝早々端野の街を走ることにする。国道を走っていると端野水田発祥の地の看板が見えたので、端野総合支所に車を停めて、端野水田発祥の地を往復することにする。
 国道をしばらく走ると、あっという間に旧北見市との境界に到着し、目的地を過ぎてしまったようである。少し戻ると端野水田発祥の地の看板が見えてきて、左折して500mほど行くと水田風景と看板が見えてきた。水田発祥の地碑の向かいには馬頭観音のお堂があり、北見最古だという。近くの田んぼの向こうにはJAのコンビナートも見える。
 しばらく、佇んだのち、端野総合支所に戻る。支所近辺は、屯田の杜公園といわれておりグラウンドや公民館等があるが、明治30年・31年に入植した屯田第四大隊第一中隊本部があった場所でもあり、練兵場もあった。最後は屯田兵の大隊長の命により創祀された端野神社にお参り後、根室に帰る。車に乗ると丁度雨が降ってきた。

 以下、看板の説明を転載する。

【端野の水田風景】
 屯田第四大隊第一中隊は明治30・31年(1897・98)に百戸ずつ、合わせて二百戸が端野に入植しました。寒冷な気候のため畑作のみを行っていましたが、稲作への思いは強く、何度も試みられました。
 明治34年(1901)、第二屯田歩兵第四大隊長の三輪光儀中佐は、この地で稲作が可能と判断し、冬季に留辺蘂から端野まで約32kmにわたる屯田大灌漑溝の掘削を命じ、翌年1月に完成させました。その後も試作の成果は上がりませんでしたが、大正13年(1924)に新たな灌漑溝の掘削に着手し、翌年に完成しました。その結果、造田に拍車がかかり、平坦地のほとんどが美田に生まれ替わり、オホーツク地方における数少ない稲作地帯として現在に至っています。

【北見最古の馬頭観世音菩薩(由来)】
 屯田兵解体直後の明治37年5月1日、三区兵村一番通り(市道8号線)兵屋8戸が焼失する三区一番の大火があり、中村市三郎、竹中善吉の馬3頭が焼死した。
 市三郎は愛馬の霊を供養しようと隣家の善吉と相談し、善吉の郷里、岐阜県美濃国稲葉郡黒野村(岐阜市)から、馬頭観世音を取り寄せ、中央道路(通称囚人道路、道道川向端野線)沿いの三番通り(市道132号線)角に建てた。これが当地方の馬頭観世音のはじめとされている。
 その後、昭和24年、三区中通(東12号線)三区公会堂前に、昭和36年三区神社下に、昭和48年三区の入会地火山灰土取り場に移設された。昭和50年、12号線裏山道路改良工事を機に、石原喜永治を会長とする建設協賛会を組織し、家畜商組合中村清信、養豚組合沢井政治の協力を得て、神社前の登り口に観音堂を改築したが、昭和59年7月17日、12号線改良工事移転補償費をもってこの地に安置された。
 昭和13年の三区連合会経常費の中に、「祭典費5円」が計上されており、馬頭祭が行われていた。太平洋戦争に突入した昭和16年から21年までは馬頭祭の記録がなく、昭和22年には「馬頭観世音祭執行」と記されており、再開されたものと思われる。
 以来、毎年7月17日に家畜を愛しむ人々によって馬頭祭が行われてきた。平成5年からは、三区農業連絡協議会が主体となり、平成21年より、春耕前の4月17日を馬頭祭とし農作業一年の安全祈願祭と合わせて実施されている。

【端野神社御由緒】
 明治30年6月7日、翌31年9月移住の屯田兵村は、当時屯田兵第4大隊第1中隊と称し、戸数200戸が兵役を兼ね開拓に従事した。開拓3年目に屯田兵一同の願出に依り祭神の協議を謀り大隊長陸軍歩兵中佐小泉正保の命を奉じ、代表が伊勢神宮に参籠し、明治33年8月仮宮を造営し、9月15日例祭を執行したのに始まる。昭和2年4月創立許可、同17年5月昇格、現社殿は昭和12年3回目の改築による。

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