豊頃町二宮地区

石碑等(開拓記念碑)

令和5年(2023)12月9日(土) 

豊頃町を走った後、車で二宮地区に向かってみた。開拓の歴史の宝庫だ。途中で「是より西 元興復社開拓二宮農場」の看板があり、二宮神社の山のトンネルを過ぎると二宮構造改善センターのところに石碑等が並んでいた。

 この場所に「興復社事務所」があったようだ。説明板に詳細に記載されている。
【興復社事務所】・・・記載の概要は次のとおり。「報徳の聖地 この広場と周辺には同社の関連施設が建てられていた。明治30年に事務所が設けられ本部が置かれた。現在に残っているのは蔵庫。かつては牛首別報徳会堂(移築した旧尊親宅)、役宅などがあった。設立経緯と事業概要 同社は明治10年に尊徳の教えを継続するために結成され、社長に富田高慶、副社長に尊親が就き、南相馬市に事務所を置いた。新政府の経済政策で対応できない農民が生活苦におちいり始め、北海道に新天地を求め、明治30年4月8日ウシシュベツに入植。開拓は谷地坊主(スゲ)と闘いであった。尊親は逃げたくなる移住者に闘う力を維持、高めるために毎月20日に相談、公園を実施した。芋コジ(例会)であり、移住民は一鍬一鍬掘り起こし843町余りを開墾。当時には珍しく小作人ではなく160名が独立した。歴史的に評価されることである。」

【なんという運命ぞ山も野分】・・・表面には左記のとおり刻まれ、裏面を読むと、明治39年東京生まれ、昭和20~22年まで同地区で開拓に従事した俳人、細谷源二さんの俳句のようである。

【胸像】・・・尊親の胸像だろうか。しかし、基台には「言忠信?篤敬 加藤仁平書」と書かれ、裏面には「二宮尊親翁三十三回忌記念 昭和30年6月20日 社団法人牛首別報徳会」と刻まれている。

【造田記念碑】・・・表面には左記のとおり刻まれている。裏面は漢文で次のようなことが刻まれている。「興復社で衆議一致して造田。大正十一年牛首別水利組合を創立、昭和3年灌漑溝を起工。昭和12年建立」面積等もたくさん記載されていたがよくわからない。

【永遠に輝く報徳乃郷土】・・・表面には左記のとおり刻まれ、裏面には牛首別報徳会の経過などが刻まれている。経過等は前述したので省略するが名文である。心に残ったフレーズのみ、以下に記す。「由緒あるこの地に定着、安定した農業経営に専心。報徳会の堅持する尊い精神が、一貫して吾々の生活の根底に潜在していた賜。尊親先生が報徳に基づく、至誠、勤労、分度、推譲の心を柱とした農民の理想郷を確立せんとする熱願の発露による。(以下略)」。広場の奥には、二宮尊親先生のお墓があり、お参りする。

 大満足の二宮尊親関係の史跡であった。帰りに高田にある二宮神社にお参りする。

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