龍雲寺

古木

令和3年(2021)10月30日(土)

丘珠→篠路→屯田→新琴似→新川→琴似→家 約17km 2時間22分

 三男のサッカーの試合を丘珠グラウンドで観戦後、篠路を通って家に帰る。
 篠路の龍雲寺あたりには史跡が溢れている。また、銀杏とナナカマドの紅葉が綺麗だった。

【龍雲寺のイチョウ】
 開山して百年を超えた龍雲寺。篠路開拓者の心の拠りどころとして、共に歩んだこの寺に鋤柄松太郎が新天地開拓の記念として植栽したと伝えられている。
 このイチョウは、北海道自然環境等保全条例に指定されている北区唯一の保存樹で
、樹齢は定かではないが、百年を超えていることは確かである。

【さっぽろ・ふるさと文化百選:荒井金助と早山清太郎ゆかりの地】
 江戸時代末期、幕吏荒井金助は石狩地方開拓のため、発寒にいた「在住武士」配下の早山清太郎に命じて篠路を調査させ、農民を入植させた。早山は、石狩地方で初めて調査させ、農民を入植させた。早山は、石狩地方ではじめて米づくりに成功したのを始め、篠路の開墾、道路開削などに貢献し、明治維新前後の札幌開拓の基礎を築いた。龍雲寺には2人の墓がある。

 一番右側の墓が荒井金助の墓で、正面に荒井金助と書かれ、裏面には漢文で克明に荒井金助の足跡が書かれている。

【荒井金助の墓】
 荒井氏名金助〇直盈徳川家之〇〇也〇〇住千東京牛込為工部吏員多年予〇〇〇勤仕京都禁衛六数年〇〇〇函館奉行支配調役〇命実安政四年也全五年以て特命航予北域樺太久春内整理・・・(転載断念)

 龍雲寺の境内の「故荒井金助直盈之墓」の左側に並んで建てられたお墓が、荒井金助の求めにより篠路の礎を開き、荒井が函館に移った後を引き継いで篠路村の発展に貢献した早山清太郎が眠る「故早山清太郎墓」である。

【早山清太郎墓】
 故早山清太郎盤城国白河郡米村産幼不覊獨立富精神嘉永年間来(不明)萬延元年居ト篠路精励開墾向擧開拓使掌地理案内者膺任諸方採検嘉納札幌神社宮地開山選定東麓其他至札幌篠路以通路一綫小徑夛曲折不便誘道村民自従事開鑿札幌篠路間益便大交通之開拓使賞功下賜金子壹萬匹翌年黒田次管賜賞状明治十四年八月明治天皇北海道御巡業之際於札幌豊平館付仰拝謁得榮〇尺天顧而左大臣熾仁親王殿下賜賞状清太郎生涯立開墾耕種勧農移民以奉公任己明治四十年八月齢九十一歳一期卒大正七年當擧開道五十記念式追彰其功績為記念贈呈銀杯壹箇現代勘之進宜哉今日於地方人乎不問面識之親疎至賞其徳慕其名今三代勘之進氏以建設碑蓋志誠之所在乃将擬追孝一助而己矣予有由緒之存因應需撰焉 俊 霊愿識」

 早山清太郎のとなりには馬頭観世音があった。正面に「馬頭觀世音」、右側面には「大正九年十二月四日 アオ」、左側面には「大正八年十一月三十日 アオ」、背面には「斎藤嘉藏之建」とそれぞれ刻まれている。

【さっぽろ・ふるさと文化百選:龍雲寺の馬頭観音】
 篠路の開拓時代、その家の手足となって働いた農耕馬。この農耕馬の健康を願うとともに魂を慰めるため、当時の開拓農民が大正9年(1920年)に建立したものである。篠路開拓者の心のよりどころとして、ともに歩んだこの龍雲寺境内にその地を求めた。

 龍雲寺を出て、交差点を渡ると、シノロ開村発祥地の説明板と馬頭観音碑があった。

【シノロ開村発祥地】
 シノロ開村発祥地 万延元年(一八六〇年)位から、和人の入植が始まりました。シノロに最初に定着した和人は、荒井金助と早山清太郎の両人であることは異論のないところでありましょう。安政二年(一八五五年)ロシヤの南下政策に対抗する為に、それまで西蝦夷地を管理していた松前藩が能力無しとのことで、江戸幕府の第二次直轄が行われることになりました。その二年後の安政四年(一八五七年)に、箱館奉行配下石狩調役・荒井金助が石狩に着任し大改革を行います。石狩には、開拓の適地が無いため発寒で知り合った早山清太郎に荒井村の入植適地を探索してもらいます。その地が、ここ、シノロ・ブト界隈だったのです。それは、安政六年(一八五九年)のことですから、今から百五十五年前のことです。なお、箱館奉行配下・荒井金助の菩提寺である篠路山豊国院龍雲寺と開拓功労者・早山清太郎の邸宅が、旧シノロ・ブトを挟んで存在し、現在でも知る事ができます。一世紀半を過ぎ、篠路も一大住宅地となり、また、川の流れも大幅に変わり更には舗装道路も完備され便利になりました。ですが、今や忘れ去られようとしているのを残念に思い、ここに記念碑を建立することになったのです。なお、ここに建っている馬頭観音大正十二年(一九二三年)は石碑に刻まれているように本村・五の戸・横新道の有志が馬だけでなく、開拓功労者や先住民のアイヌや擦文人の精霊も祀っていたあかしだと思います。この度、篠路開村発祥の地に住み続ける篠路本村の子孫が、両偉人と本村先人の苦労を偲んで顕彰するために建立するものです。平成二十六年九月六日 碑文 (氏名)

 となりの馬頭観音碑には「篠路 発起者 本村 五戸 横新道 有志 大正十二年八月十六日」と刻まれていた。

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