大丸山・金沢山・北条実時の墓・称名寺

古墳・ストーンサークル・墓所

平成22年(2010)10月31日(日)大丸山156m(神奈川県横浜市金沢区釜利谷西)・金沢山76m(横浜市金沢区金沢町212-1)

家1000→大丸山1055→金沢動物園1129→ラーメン店(うめや)→称名寺緑地・八角堂1230→称名寺1250→金沢八景駅1300

 今日は、当初は東海道53次の続きをやろうと思ったが、二日酔いと風邪気味のため、前々から考えていた「いたち川」をどこまで遡れるか試し、三浦半島を縦断して金沢八景まで行ってきました。
 家を出発して、イタチ川を上流に向かう。ナナカマド、柿木、柔道の角田道場、石板。

 イタチ川沿いの遊歩道、しかしマムシ注意の看板!!庄戸5丁目の住宅街から、金沢市民の森に入る。階段から進むとあっという間に、横浜市最高峰の大丸山。頂上からは横須賀方面の景色がよく見える。

 金沢側に降りて、高速道路を横切り、金沢動物園でセグウエイを見る。自然公園の展望台からの眺め。

 金沢八景の街にでたら、新極真会木元道場の看板、懐かしい。その横にはラーメン屋があり、結構混んでいる。腹が空いたので、入ってしまった。うめや特製つけめん。チャーシュー3枚と卵付き。スープは豚骨ベースに魚介を混ぜたスープ。店も清潔感があり、スタッフの対応も良く大満足。

 腹がふくれて動きがたいが、体にむち打って、最後の目的地、称名寺へ。金沢文庫駅をすぎて、また山に入る。結構な登りで、景色が良くなってきた。金沢山頂上に到着。八角堂があった。

【金沢山】【八角堂】
 標高76メートルの金沢山の頂上にあります。1935(昭和10年)に建立称名寺の復興に力を尽くした人でかつて西柴団地内の金沢町第二公園付近に広大な別荘を構えていた大橋新太郎氏が建立したといいます。落成式は北条実時公の660年記念大法要に合わせて盛大に行われたといいます。八角堂には長浜観音様が据えられ戦前はお参りの人で賑わったそうですが・・・しかし戦時中観音様が破損したこともあり称名寺の金堂に移されています。八角堂はその後も色々ありました財政危機による称名寺の衰退や金沢三山の開発のピンチ・・・なんとか乗り越えいまがあるんですね。

【北条実時の墓】
 北条実時(1224~1276)は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時義時の孫で、貞応3年に実泰の子として生まれました。実時は、引付衆や評定衆など幕府の要職を歴任し、文永3年(1275)には越訴奉行をつとめています。政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力をつくし、文武ともにすぐれた知識人で、現在の称名寺がある地に別業を開き、金沢文庫の礎を築きました。墓地内中央の宝篋印塔は、実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔は一門の墓といわれています。また、江戸時代この墓地を修理したときは、素焼きの壺の類が出土したといいます。

【称名寺】・・・金沢豊穣一族の菩提寺
 称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されています。その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(1248~1301)の時代には、弥勒堂みろくどう、護摩堂ごまどう、三重塔さんじゅうのとうなどが建立され、さらに、顕時の子、貞顕(1278~1333)は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。しかし、元弘3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。

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