鎌倉:浄智寺・葛原岡神社

寺社

平成23年(2011)2月26日(土) 10時頃~12時頃藤沢駅
 昨日は金曜日にかかわらず残業で終電で帰宅。寝坊したので、近場の鎌倉を走りに行く。当初は北鎌倉から大仏ハイキングコースを通って、大仏切り通し、そして稲村ヶ崎に行こうと思ったが、大仏トンネルの上からが土砂崩れで通行止めだったので、そのコースを断念し、大仏トンネルから藤沢への道に切り替える。藤沢駅から帰りました。

【浄智寺】神奈川県鎌倉市山ノ内1402
 浄智寺は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼の三男である北条宗政が亡くなった折、その菩提を弔うために1281年頃に創建されました。
 当時は中国(宋)からの渡来僧も多く、最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院に達しました。現存する鐘楼門(しょうろうもん)や本堂の様子などより、「宋風」という当時の中国の様式をうかがうことが出来ます。
 本尊の木造三世仏坐像は神奈川県の重要文化財に指定されています。また「木造地蔵菩薩坐像」(国指定重要文化財)や「木造韋駄天立像」(市指定重要文化財)は鎌倉国宝館におさめられています。
 境内は国の史跡に指定され、寺域は源氏山ハイキングコースにある天柱峰まで広がっています。その境地は昭和の初めから文化人に好まれ、映画監督小津安二郎、日本画家小倉遊亀などが暮らしていました。境内の墓所には作家澁澤龍彦など、文人たちが眠っています。

 山道のピークらしいところに五重塔の石碑を訪問し、葛原岡神社を訪問する。神社横の昇運の龍を拝み、富士山を拝む。
【葛原岡神社】神奈川県鎌倉市梶原5-9-1
 葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)は後醍醐(ごだいご)天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基(ひのとしもと)卿をお祀りする神社です。俊基卿は幼い頃から学問の道に優れ、大変有能な人物であったので、後醍醐天皇より見出されて、優秀な側近として活躍されました。当時、鎌倉幕府は悪政を続けており、後醍醐天皇は政治を正しい姿へと導くため、幕府を打倒する決意を固められ、計画を練られました。俊基卿も、後醍醐天皇の最も信頼の厚い側近のひとりとして計画に加わり、重要な役割を果たしておりました。ところが、正中元(1324)年、幕府打倒の計画は事前に幕府に察知され、俊基卿は捕らわれの身となって鎌倉へと送られてしまいました。しかし、俊基卿の身を心配された後醍醐天皇が鎌倉へ万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)卿を派遣、とりなしに努めたので、翌年には京都へと戻ることが出来ました。その後も、後醍醐天皇は屈せず鎌倉倒幕の計画を進められ、俊基卿も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしておりましたが、元弘元(1331)年、またも計画が幕府に知られ、俊基卿は天皇をかばうため、再び捕らわれの身となりました。鎌倉へ送られた俊基卿は計画の中心人物として、翌元弘二(1332)年六月三日、幕府の手によって葛原岡にて悲劇のご最期を迎えられました。その間、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の元弘三(1333)年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。俊基卿自身は、その目で「建武の中興」を見ることなく、悲劇のご最期を迎えられましたが、明治天皇は俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。以来、鎌倉由比ヶ浜の総鎮守として、また「建武の中興」への道を開かれたことから「開運の神様」、また文章博士として優れた能力発揮されたことから「学問の神様」として、今日でも広く全国各地より篤く崇敬されております。

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