極楽寺~満福寺~龍口寺

寺社

平成23年(2011)10月29日(土) 15時頃~17時頃 鎌倉駅~御成通~極楽寺~満福寺~龍口寺~藤沢 

 14時頃まで子供の運動会。好天だったので、夕方に近場の鎌倉をランニング。御成通、レトロ歯医者、古風な建物。
 

【御霊神社】
 はじめは関東平氏の鎌倉氏、梶原氏、大庭氏の先祖の霊をまつっていましたが、やがて後三年の役で活躍した武勇が名高い平安時代の武士・権五郎景政がまつられるようになりました。地元では「権五郎さま」と呼び親しまれています。景政のことは『保元物語』等に東北地方の金沢の柵の合戦で左の眼を射られながら敵を討ちとった話が載っています。また、景政は鎌倉武士団を率いて湘南地方を開拓した領主でもあります。

 極楽寺の後から稲村ケ崎。

【満福寺】義経が兄頼朝に鎌倉に来るなと留め置かれた寺。
 ここ満福寺は、讒言を受けた源義経が兄の頼朝との和解のため、鎌倉に入るべく、一時宿所とし、兄への手紙を書いた寺である。
満福寺が相模国腰越にあったため、その手紙は「腰越状」と呼ばれる。満福寺には、「腰越状」の下書きをしたためたといわれる弁慶ゆかりの〝もの〟がたくさん残されています。 弁慶の腰掛石、弁慶の手玉石というものもあり、また「腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだ硯の池、弁慶手沢の椀、錫杖等々……。
義経がここを宿としたというのは、腰越が源氏と関わり深い地であったことを示しています。 義経を主人公とする能「八島」の前シテが老いた漁師であるというのは、義経と漁民との関係を秘かに語っているのかも知れません。

 なんと、腰越で江ノ電が路面に変わるのだ。知らなかった。

【龍口寺】立正安国論で反逆者とされた日蓮聖人を処刑しようとして建てられた寺だが、処刑の直前に雷が鳴って中止となり佐渡に遠島になったという。以下ネット。
 日蓮聖人(1222~1282)がご入滅(死去)された後、直弟子の日法聖人が、延元二年(1337)に「龍ノ口法難の霊跡」として、一堂を建立し、自作の日蓮聖人像と、首の座の敷皮石を安置したのが、寂光山龍口寺の始まりです。
 日蓮聖人の四大法難(松葉谷・伊豆・小松原・龍ノ口)の中でも、屈指の霊跡とされる龍口寺は、篤信者であった島村采女が慶長6年(1601)に土地を寄進され、諸堂・境内地が整い、現在まで連綿と法灯を継承しています。
龍口法難会 また、毎年9月11日・12日・13日を「龍口法難会」と定めて、厳粛にかつ盛大に大法要が営まれています。特に12日の夕刻から夜にかけ近在講中の人たちによる万灯が奉安され、門前には夜店も立ち並び、大変な賑わいを見せます。

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