令和5年(2018)12月9日(土)
豊頃町役場~はるにれの木~茂岩神社~二宮尊親先生御住居跡~茂岩山(83m)
9.5km 1時間26分
豊頃町内を走ったことがなかったので、豊頃町役場に車を停めて景勝地や史跡等を訪問する。役場のところに「二宮尊徳翁回村之像」があった。隣には裏には説明の碑文が刻まれていた。
【二宮尊徳翁回村之像】・・・隣の石には、表面に「むかしまく木の実大木となりにけり 今まく木の実後の大木ぞ」と刻まれ、裏面には碑文が刻まれていた。概要としては、二宮尊徳翁は、江戸時代末期の農業経済学者で、全国の経済政策に大きな影響を与えた偉人。尊徳の孫、尊親は、報徳の教えに基づき北海道開拓に大志をいだき、農民の理想郷を確立するため、明治30年相馬からの移住者一行とともに本町に入植。以来、本町は報徳の教えを受け継ぐことに誇りとし、その精神を町民憲章に定め、今日も実践に努める。(以下略)
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役場から十勝川を渡って、豊頃町の名勝、はるにれの木に向かう。河川敷に「十勝川統内新水路記念碑」が聳えていた。
【十勝川統内新水路記念碑】・・・表面には左記のとおり刻まれ、左下には「北海道開発事務次官 土佐林宏書」と刻まれていた。裏面の碑文には「豊頃町は十勝発祥の地として母なる大河十勝川の流れとともに歩み開基110年を迎えようとしている 今十勝川の歴史をかえりみると幾多の先人たちのすいがいとの悲惨な闘いであった 十勝川統内新水路掘削事業に昭和3年池田町大曲から千代田鉄橋までの計画あったが下流域の洪水対策と一千ヘクタール以上に及ぶ統内原野の開発を促進するために昭和6年に現在の千代田鉄橋から茂岩地域までの掘削事業に変更された この掘削事業により統内原野の開発が進み本町の穀倉地帯である北栄地帯と統内地帯が確立された 雄大に縦貫する十勝川統内新水路が通水以来50年の歳月が流れ 母なる大河十勝川における開拓事態に水害から生命と財産を守り抜いた先人たちの労に感謝するとともに この掘削事業の偉大なることを後世に伝えるため この碑を建立した」
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はるにれの木は牧草地の中にすぐに見つかった。指定年月日昭和61年2月21日で、樹齢は推定150年。所在地は豊頃町幌岡南9号地先。樹高は17m。牧草地の中であるが、踏み跡があるので、近づいてみると大きな木であった。
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来た道を戻るとT字路の正面は茂岩神社であった。
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神社から街の北側を走ると「二宮尊親の住居跡」があった。住居は残っておらず、説明板があった。
【報徳の伝道者 二宮尊親の住居跡】・・・説明板の記載概要は次のとおり。「尊親は尊徳の嫡孫で、安政2年に日光市今市で産まれ育った。明治30年に相馬地方の農民たちと豊頃町に移り住み、村づくりを成功させたのち、明治40年に帰郷し、祖父が残した膨大な資料整理に努めた。大正11年に体調を崩し、68歳でこの世を去る。地元民が熱望した分骨が二宮の墓地に埋葬されている。翁の住宅建材は二宮奥地から川を利用して運んだ。家の裏には川が流れ、大津かからの物資運搬と釧路への移動に便利な交通の要地だった。明治31年尊親は家族を引き連れこの地に移り住み、二宮地区の興復社まで8kmを馬で通った。尊親は明治10年に尊徳の高弟 富田高慶らとともに尊徳の教えの実践を目的とする同社を結成。同社は農民の救済のため、明治29年7月に北海道に渡り、豊頃で尊親が理想とする土地ウシシュベツ(現在の二宮地区)を発見。厳しい住民募集要件として、1土地5町歩を支給、2土地の所有権は耕地4町歩の開墾と報徳金を完納した時に譲渡する などを約束し、明治30年4月8日相馬地方から12戸の移住者と先住者6戸が合流し、ウシシュベツ開拓が始まった。
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二宮尊親先生ご住居跡を訪問した後、茂岩山に登る。ずっと車道があり、展望台らしきところが頂上らしいが、頂上の説明板等はない。なだらかな山の上は、老人ホーム、キャンプ場、ホテル、パークゴルフ場があった。最後はぐるっと一周ランができた。
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