彦根城

城郭・チャシ

令和6年(2024)1月23日(火)滋賀県彦根市金亀町1

 出張中の途中で彦根城に登場してみた。徳川家の名門「井伊家」の居城。琵琶湖畔の高台に天守閣がそびえ、それは遠くから眺めることができた。曲がりくねった石畳をしばらく登り、門を複数通らないと天守閣に辿り着けなかった。天守閣からは、琵琶湖や田園地帯など四方八方が見渡せた。しかし、天候が悪化しつつあり、雪がちらつき始めた。

【彦根城の概要(彦根市役所等のHP等より)】
 彦根城は彦根山(金亀山)を利用して江戸時代初期に築かれた平山城(ひらやまじろ)です。現在も、山頂には国宝の天守があり、その周囲を巡るように重要文化財の各櫓(やぐら)が残っており、麓には下屋敷をはじめ内堀や中堀などが当初の姿を留めています。
 「彦根城」は1604年(慶長9年)から、天守は約2年、城郭全体は約20年かけて築城されました。元々、彦根の地を治めていた佐和山城をはじめとする複数の城や、寺院の材木・石垣が使用されています。
 佐和山城は1590年(天正18年)より「石田三成」の城でしたが、「関ヶ原の戦い」で石田三成が敗れたことにより、城主は戦いの勝者「徳川家康」の家臣「井伊直政」へ。その後、徳川家と対立していた豊臣家と、豊臣家の恩顧を受けていた西国大名を監視するため、徳川家康の命令によって彦根城の築城が開始されました。このときに佐和山城は廃城となり、石垣や多くの建造物が彦根城へと運ばれます。すでに井伊直政は亡くなっており、息子・井伊直継と、その弟・井伊直孝が築城を引継ぎました。
 1614~1615年(慶長19~20年)、井伊直孝は「大坂冬の陣・夏の陣」に参加。冬の陣後には手柄を上げたことで家督が譲られ、城主となりました。井伊直孝は江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」から4代将軍・徳川家綱に至るまで幕政に貢献し、この間に30万石を所領することとなります。これは譜代大名としては珍しいことでした。そして、彦根藩は幕府領と合わせて35万石を有する藩となったのです。
 明治時代に入ると、廃城令により彦根城は解体の危機を迎えました。しかし1878年(明治11年)、明治天皇は巡幸の帰りに彦根を訪れ、そのときに彦根城の保存を勅命。保存を願い出たのは天皇の従妹だという説と、随行していた大隈重信だという説があります。
 こうして解体をまぬがれた彦根城は、その天守が1952年(昭和27年)、国宝に指定されました。国宝に指定されている現存天守を持つ城は、彦根城の他に「松本城」「犬山城」「姫路城」「松江城」で、国内に5城のみとなっています。

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