仁徳天皇陵

古墳・ストーンサークル・墓所

令和6年(2024)1月24日(水) 仁徳天皇陵(大阪府堺市堺区大仙町7-1)
  仁徳天皇陵を初めて訪問した。2019年に世界遺産に登録されており、一度は訪問したかったところだ。立派な駐車場、資料館があった。資料館ではシアターで仁徳天皇陵を地上から俯瞰できる映像を拝見できた。

【仁徳天皇陵古墳(百舌鳥耳原中陵)の掲示板の概要
 わが国最大の前方後円墳。第16代仁徳天皇陵。令和元年7月6日ユネスコ世界遺産委員会で世界遺産として登録。全長486m、後円部直径249m、前方部幅307m、南北長さ840m、東西長さ654m、周囲距離2,718m、面積464,124㎡で、大きなことから大仙陵と呼ばれる。三重の周濠が巡り、さらにその外側には、陪家(小古墳)が作れられた。一日最大2,000人が従事し15年8カ月、延べ680万人が従事し、5世紀中ごろに完成。日本書紀によると仁徳天皇10月5日に仁徳天皇が行幸してこの地を陵地と定め、同年10月18日から工事開始。この時、鹿が野原から走り出て、工事に従事している人々が倒れ、調べると鹿の耳から百舌鳥が飛び去り、鹿の耳から百舌鳥が飛び去り、耳の中が喰い裂かれていたのでこの場所を百舌鳥耳原となずけた。

 仁徳天皇の概要等をネットから転載。

 応神天皇につぐ16代の天皇とされる。応神の子,履中,反正,允恭天皇の父。諱(いみな)はオホサザキ(大雀,大鷦鷯),宮は難波高津宮,陵は和泉百舌鳥耳原(もずのみみはら)中陵。天皇は幼にして聡明,壮におよび仁慈,ために〈仁徳〉と諡(おくりな)されたが,悪逆無道とされた25代武烈天皇でこの応神・仁徳の王系が途絶えるのと対比される。これは中国の易姓革命の思想によって,この王系の始祖を応神・仁徳とするための措置であろうと考えられ,応神・仁徳は同一人格とみる学説もある。治世中の事跡にも,菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と皇位を譲り合い,倭(やまと)の天皇の屯田(みた)を横領しようとした額田大中彦(ぬかたおおなかつひこ)皇子を罪せず,百姓の窮乏を知り,みずから倹約して苦を共にし,課役を免じて百姓を富ましめ,宮室を造らず,百姓らは進んでこれを造営したというような話が多い。

 

 難波(大阪)で天下を治めた仁徳天皇は、炊事の煙が立っていないことを見て民の貧窮を知り、三年間、税を免除したので聖帝とたたえられました。后の石之日売は嫉妬深く、天皇がほかの女性を気に入ると、地団駄を踏んでくやしがります。后の嫉妬を恐れた黒日売(くろひめ)が故郷の吉備に逃げ帰ろうとすると、船から追いおろして徒歩で帰らせました。また、石之日売が、儀式に使う御綱柏(みつながしわ)を採りに船で紀国(きのくに/和歌山)に行っている留守中に、天皇は八田若郎女(やたのわかいらつめ)と昼夜戯れ遊んでいました。石之日売はそれを知ると、恨み怒って大事な御綱柏をすべて海に投げ棄ててしまいました。そして、そのまま淀川をさかのぼって山代(やましろ/京都)の地に籠もってしまい、天皇は后のご機嫌をとろうとわざわざ出かけていきました。

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