さきたま古墳

古墳・ストーンサークル・墓所

令和6年(2024)4月30日(火) 埼玉県行田市埼玉

 関東行脚の最終日は、中山道ではなく行田市の史跡巡りに。高崎線の吹上駅で降りてバスに乗って、途中で降りてさきたま古墳公園に向かう。古墳群の南側から散策していく。

【埼玉古墳群】(ウイキペディアから概要転載)
 9基の大型古墳(前方後円墳8基、円墳1基)からなり、国の特別史跡に指定。世界遺産の子弟を目指している。かつては大型古墳の周りに円墳35基、方墳1基があったが、昭和初期の沼地の干拓で取り壊された。日本書紀によると534年、笠原直使主が武蔵国造の継承戦に勝利し、安閑天皇により国造に任命されており、そのような有力者の墓ではないかという説で、5世紀末から7世紀にかけて古墳が成立したといわれている。(以下略)

【奥の山古墳】
 墳丘全長66mの前方後円墳。周堀が二重、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が巡らされていた。6世紀中ごろから後半につくられた古墳。

【中の山古墳】
 全長推定79m、6世紀末から7世紀初頭の前方後円墳で、この古墳群で造られた最後の前方後円墳。須恵器生産の方法で造られた底のない壷のような形をした全国に例のない埴輪が並べられていた。30km離れた寄居町末野窯跡群で生産されたもの。

【瓦塚古墳】
 全長73mの前方後円墳。発掘調査から中堤には、琴を弾く男子、踊る男女、武人の埴輪、盾形埴輪、家型埴輪など多種の埴輪が建て並べていた。内部は未調査。

【旧遠藤家】
 旧家が展示されていた。埼玉県幸手市大字千塚から移設された民家で、江戸末期に建てられ67.41坪ある。屋根には煙出しの高窓、棟の両側に火難除けとして水と龍の文字が刻まれている(以下略)。

【さきたま史跡の博物館】
 館内には、出土した埴輪などが展示されていた。

 次に将軍塚古墳に向かう。ここは内部に入れるのだ。

【将軍山古墳】
埼玉古墳群の北東部に位置する将軍山古墳は、全長90mの前方後円墳です。明治時代に後円部に造られた横穴式石室が発掘され、多くの副葬品が出土しました。石室には、遠方より運ばれた二種類の石材が使われていることがわかっています。墳丘の東側は削平され、崩落も進んでいたため、平成3年から古墳の復原整備工事を行いました。墳丘、周囲の堀の復原や、墳丘に埴輪のレプリカを並べるなど、古墳が造られた当時に近い形で整備しています。古墳の内部には、複製の石室や遺物の置かれた状態を見学できる施設、「将軍山古墳展示館」が平成9年にオープンしています。横穴式石室からは多種多様な副葬品が見つかっています。中でも馬冑と呼ばれる馬の武装用の冑は、国内の出土が3例と少なく、大変珍しい遺物です。他にも、蛇行状鉄器と呼ばれる旗ざお金具などの馬具や環頭大刀などの武器・武具、銅鋺などの容器など、豪華な品々が一緒に納められていたことがわかっています。

 将軍山古墳から稲荷山古墳に向かう。ここは上に登ることができる。

【稲荷山古墳】
 埼玉古墳群で最も古く、最も北に位置する古墳です。前方部は土取りで消失していましたが、発掘調査を基とした復原整備(1997年~)により、当時に近い形がご覧いただけます。墳丘の全長は120mで、周囲には二重の長方形の周堀がめぐります。墳丘、中堤のそれぞれ西側に、造出しという張り出し部が設けられています。墳丘の頂上に登ることができ、復原された礫槨とともに、周囲の古墳を見渡せます。昭和43年の発掘調査により、後円部から2基の埋葬施設が見つかりました。そのうち礫槨からは、鏡や武具、馬具とともに、115の文字が刻まれた鉄剣が出土しました。金錯銘鉄剣と呼ばれるこの剣は、古墳時代の刀剣の銘文としては最も長文で、その内容も古代史を研究する上で重要な情報が含まれています。稲荷山古墳の埋葬施設から出土した遺物は、その学術的・歴史的価値の高さから、一括で国宝に指定されています。

最後に丸墓山古墳である。唯一の円墳に登頂。

【丸墓山古墳】(説明板概要)
 直径105mの円墳で日本最大。高さも埼玉古墳群の中で一番高く約19m。6世紀前半頃に築かれたと推定され、埋葬施設の中が確認されていない。南側から古墳に至る道は1590年に石田三成が忍城を水攻めに築いた石田堤で、水攻めの際には古墳の頂上の上に陣が張られた。
  

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