中山道(本庄宿~新町宿)

中山道

令和6年(2024)4月28日(日) 本庄宿~新町宿(11.1km)
当日の総走行距離 11.3km 1時間47分

 朝早朝に起きて、4時半頃ホテルを出発する。もう明るい。写真がぼけているが旧本庄商業銀行レンガ倉庫が街道沿いにあった。

【旧本庄商業銀行レンガ倉庫】(概要)
 明治29年に建設された蒸気銀行の煉瓦造りの倉庫。この辺は繭の集散地として栄え、明治16年に本庄駅が開業すると絹と繭の街として発展。屋根がキングポストトラスで支えている。

 街道沿いに酒蔵、金鑚神社(かなさなじんじゃ)があったが、写真がぼけてよくわからないが、とにかく古い。

【金鑚神社】
 同神社は社伝によると、創立は欽明天皇の二年(五四一年)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。 境内は、欅や銀杏などの老樹に囲まれ、本殿と拝殿とを幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は亨保九年(一七二四年)、拝殿は安永七年(一七七八年)、幣殿は嘉永三年(一八五〇年)のそれぞれの再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。大鳥居には、老中松平定信が揮毫した社額号がある。 当社の御神木となっている楠木の巨木は、埼玉県指定の天然記念物で、幹回り五・一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百五十年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられている。 このほか、当社には本庄市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、金鑚神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。 数ある当社の祭りの中でも、例大祭は「本庄祭り」として一際名高い。この祭りは、江戸時代には「奥のお九日(おくのおくんち)」と呼ばれ、毎年九月二十九日に五穀豊穣と宿内繁盛を祈るものであったが、明治七年ごろ現行の祭日に変更された。祭りに際しては、神賑行事として北関東随一と称される山車(だし)の市内曳き回しがあり、旧本庄宿の各町内が自慢の山車を繰り出し、本庄市観光協会と各自治会の主導で旧中山道を中心として盛大に巡行を行う。一方、当社では厳粛な祭儀の後、御祭神である天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊の三柱の神霊を神輿に移して渡御式(とぎょしき)が斎行され、神楽殿では地元の金鑚神楽本庄組による神代神楽奉納がある。

 上里町に入るとすぐに浅間山古墳があった。

【浅間山古墳】(説明板の概要)
 この浅間山古墳は旭・小島古墳群に属し、径28m、高さ6mの円墳という。胴張両袖型横穴式石室の玄室の長さは6.48m、羨道3mだ。直刀、鉄鉾、鉄鏃、銅椀などが出土している。築造は7世紀後半の古墳時代終末期で、銅椀は仏教との関わりがあるようだ。右の実測図は案内板に掲載されており、スケールは10mだ。右上の小さな写真は、石室の様子である。

 旧道を歩くと多くの石碑があり、「金窪八幡」にお参りし、金窪城に曲がる道に「飯島増吉源の義光先生碑」があった。

 少し道から外れて数百メートルほど歩くと公園のところが金窪城址だった。

【金窪城址】
 神流川に臨む崖上に位置し、平安末期の治承年間(1177-81)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治が築城したと伝えられ、元弘年間(1331-34)新田義貞が修築して家臣の畑時能に守らせたという。室町中期の寛正年間(1460-66)には斎藤実盛の子孫といわれる斎藤盛光が居城した。天正10年(1582)6月、滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦で一族は討死し、城は焼失して斎藤氏は没落した。勝利した北条氏は金窪城を上州との境目の城として重要視し、鉢形城の支城としたが、天正18年、前田・上杉軍の前に鉢形城と共に落城した。徳川家康の関東入国後は武田信俊の所領となり陣屋が置かれたが、元禄11年(1698)孫信貞の時、丹波国へ転封となり陣屋も廃されたという。

神流川手前には、天田家本家や梵鐘が古い陽雲寺があった。陽雲寺には武田信玄の奥さんの陽雲院との画像があるという。いずれにしても歴史を感じさせる。
今日の朝ランは、旧街道・城跡・古墳・古戦場・神社仏閣と盛沢山であった。

 そして神流川にさしかかる。ここは戦国時代における織田信長の武将滝川一益と北条家との戦いの場であった古戦場なのだ。この神流川古戦場をわたると新町宿である。

【神流川古戦場】観光協会のHPより転載
 神流川の戦いは、天正10(1582)年6月18日と19日の両日にわたり、武蔵・上野国境の神流川を舞台に行われた織田信長の武将厩橋城主滝川一益と鉢形城主北条氏邦、北条氏直との戦いです。別名「金窪原の戦い」ともいわれ、金久保・毘沙吐周辺をその戦場として激しい戦いが繰り広げられました。織田信長が本能寺の倒れた直後、関東管領滝川一益は、信長の仇を討たんと上京しようとしました。これに対し、好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めました。初戦は、6月18日巳の刻(午前10時頃)よりはじまり、深谷・忍衆を含む鉢形城主北条氏邦(3.000人)と上野国衆(8.000人)が戦いました。この初戦では、石山大学・保坂大炊助などの武将をはじめ300騎が討たれた北条氏邦の敗北で終わりました。伝承によれば、この敗北によって金窪城が焼失したと伝えられています。2度目の戦いは、6月19日未明、小田原より到着した北条氏直と滝川一益による総力戦が展開されました。数万(30.000人)の北条軍に対して、半分(18.000人)程の軍勢であった滝川軍はよく戦い、前半は滝川軍優勢のうちにすすみましたが、北条軍の迂回作戦によって後方を攪乱された滝川軍は軍を乱し、倉賀野方面へ敗走しました。この乱戦の中で、滝川一益の重臣笹岡平右衛門は、敗走する上野衆を後目に旗本衆とともに北条軍の本陣をめざして進み、討死をとげています。神流川古戦場跡一帯は、現在は陸上自衛隊駐屯地になっています。

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