中山道(安中宿~松井田宿)

中山道

令和6年(2024)4月29日(月) 安中宿 当日の総徒歩距離 25.2km 7時間7分

 安中宿を出て国道から原市に入ると杉並木が一部残っていた。安政遠足の幟をたくさん見かける。安中の地は、日本マラソン発祥の地らしく、5月には大会も開催されるようだ。

 旧家もあり、明治天皇の休憩場所もあった。

 八本木地蔵は、安中最古の史跡だそうだ。

【八本木地蔵】(説明板より)
 八本木地蔵堂の本尊・地蔵菩薩像は、頭は円頂(削った坊主頭)で、体には袈裟と衣を着用し、不通の僧侶の姿をしている。秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、霊験あらたかで日本三地蔵の一つであるといわれている。様式は田舎造りで素朴の中に威厳と気品をそなえ、頭頂が扁平になっていることなどから造像された年代は室町時代初期のものとみられる。当地蔵堂の御本尊延命地蔵菩薩像は、大永五年(1,525)松井田小屋城主安中忠清 が、原市に榎下城を築いて移り住むとき、かっての故郷越後国新発田より、近戸明神、米山薬師と共に城の守護仏として勧請したと伝えられている。像は木像寄木造りで総高一、一五米、金箔半跏趺坐像で、室町時代初期の作と推定される。霊験灼かな秘仏として百年に一度御開帳される。なお日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の一つとして善男善女の崇敬を集めた。特に江戸時代、高崎城第二代城主酒井家次(慶長九年~元和三年)は、この地蔵菩薩に深く帰依した。ある夜夢のお告げにより、御堂を改築、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し信仰を怠らなかった。参勤交代の為中山道を往来の諸大名も、下乗下馬(騎乗のまゝ通れば仏罰により落馬するという)して参詣したと伝えられる。御利益は除厄消災、子育安産、延命招福その他私たちの諸々の願望を叶えて下さる有難いお地蔵さまである。上州原市八本木延命地蔵尊奉讃会 」

 郷原地区というところに日枝神社があった。ここは社殿の前に神楽殿がある変わった形式である。

【日枝神社御由緒】(神社HPより)
 当社は、安中市西部に位置する郷原の鎮守で、旧号「山王大権現」と称し、かつては一体であった旧別当職、真言宗豊山派 自性寺と隣接して鎮座する。慶安二年(一六四九)徳川家光より御朱印四一石八斗の奉納を受けた。また神仏習合の頃は、境内で護摩祈祷などを行った模様である。また山王権現のお使いが猿であることから、延宝八年(一六八○)の庚申燈籠を始め供養塔、青面金剛碑などの石造物がある。本殿は、山門のように正面に配置されているのは拝殿で、神楽殿も兼ねた物である。元禄十年(一六九七)建立で棟札に大工三左衛門尉とある。また、大正二年(一九一三)には大規模な社殿修理が氏子総出でなされた。一の鳥居は、明治二八年(一八九五)『古社調』に山王鳥居の図が見える。平成十年(一九九八)御鎮座六○○年記念の石鳥居が氏子一同により奉納された。二の鳥居は元文元年(一七三六)の物である。

 郷原の妙義道常夜燈を過ぎるともう間もなくすると松井田宿であるが、ここで無謀にも松井田城跡に登ることになる。

【郷原の妙義道常夜燈】
郷原の妙義道常夜燈 指定種類 安中市指定重要文化財 指定年月日 昭和六十年六月二十一日
 この常夜燈 は、文化五年(1808)に地元の碓氷郡郷原村(現安中市郷原)を中心とする「妙義講」の人々が、当時、原市村(現安中市原市)に仮住まいしていた「信州伊奈郡手良郷野口村向山民吉」という石工に建立させたものである。
 常夜燈の露盤の四面と笠の正面には十六弁の菊(八重菊)の紋章が刻まれている。また、塔身の正面には「白雲山」、東面に「文化五年戊辰四月七日」、西面に「当所講中」と刻まれている。
 また、台石には「是より妙義道」と刻まれており、妙義神社への参詣者のための道しるべとなっていたことがわかる。切石積みの台座には、妙義講中六十七名と石工の名前が刻まれている。
 当時の妙義山への深い信仰心を示している。なお、元々この常夜燈はここから東へ五十メートルの中山道から妙義道への入口にあったが、昭和六十年三月に現在地に移転したものである。

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