令和6年(2024)5月3日(金祝) とかち帯広空港~幸福開拓80年記念碑~幸福駅~国道236号線~豊稔泉水流碑~空港南A遺跡~農魂碑 23km 3時間8分
ゴールデンウイークで札幌に帰省する途中、とかち帯広空港周辺を走って史跡を訪問することにする。飛行機は利用しないが、空港に駐車してまずは幸福駅を目指す。幸福駅手前の幸福地区に開拓記念碑があった。
【幸福開拓80年記念碑】(説明板を転載)
明治35年茫漠たる未開の原野に入植した先駆者達が幾多の苦難を克服し、風雪に耐えて80年、今日の豊かな郷土を築く。茲に先人の労苦を偲び、偉大な業績を讃え記念碑を建立し、感謝の誠を捧ぐ 一層和衷協同明るい郷土の発展を誓う。 昭和56年4月協賛会一同
【幸福駅】(帯広市HPより一部転載)
幸福駅は旧国鉄広尾線に、1956年(昭和31年)に開設し、1987年(昭和62年)に広尾線廃線とともに廃止となった駅です。1973年(昭和48年)3月、NHKのテレビ番組『新日本紀行』で『幸福への旅〜帯広〜』として紹介されたのをきっかけに、愛国駅から幸福駅行きの切符が「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズとともに一大ブームになりました。開設当初に建てられた駅舎は、耐震補強を行うことさえ困難なほど老朽化が進んでいましたが、訪れる人の安全の確保と更なる魅力アップを図るため、2013年(平成25年)11月、「古くて新しい」をコンセプトに、駅舎とその周辺を交通公園・ふれあい広場としてリニューアルしました。現在も、年間20万人以上の観光客が訪れる帯広市を代表する観光スポットです。
国道236号線を南下し、中札内村に入ってすぐに左折して農道を走る。
空港の南西側のところに「豊稔泉水流」碑があった。
【豊稔泉水流】(説明板の概要)
途別川は大正地域の大地を潤す河川であり、幕別町字栄、字途別、字古舞、字美川、帯広市大正町、桜木町、昭和町、幸福町、以平町、泉町、中札内村興和、新生、共栄、共和、栄に及ぶ。当地区は明治30年の入植に始まるが、トウペツ「沼の川」に由来する地名のように流域の大地は一面の湿原であった。開拓は春の雪解けや長雨の後の洪水などにより幾度となく被害を受け苦難を極めたが、以平の丘陵から湧き出す泉の流れは未来の豊かな稔を約していた。入植者の悲願であった途別川の改修は国営途別地区直轄明渠排水事業として昭和28年に始まり、13年の歳月を要し昭和40年に竣工。しかし竣工後も水害や凍上、法面崩壊などが発生。国営桜木地区直轄明渠排水事業は昭和58年に着工、11年に及ぶ星霜を経て竣工。先人が夢見た稔豊かな大地は開拓百年の時を迎えようとする今日結実をみた。湧き出す泉の流れは湿潤の地を緑の沃野に変えたのである。平成6年7月29日 (以下略)
空港の東側の道を北上する。農魂・泉町発祥の地碑があった。小出農場のところである。
【農魂・泉町発祥の地 賜水農園】(開拓記念碑由来のポイント)
東京在住の鈴木義三郎氏が、子息が営農を希望するならばの配慮から、この地の未墾地壱百町歩を所有す 地主から十勝農業学校田村鉄馬教諭と幸震高丘地試験場福島吟四郎技師を介して開墾の懇請を受けて わが父忠作が当地に入地したのは大正13年5月 契約では此の地の内69町歩を十年間に墾成のあかつきには土地10町歩を贈与されることになっていた 周囲4㎞以内に人家なく 大地は柏樹低湿地はハンノキが原始林を作り 葦類が密生 人を頼み炭を焼き耕地を広げ 小作人を入れ馬3頭を組み 切り株の間を縫う如くプラオ開墾に励んだ 3年ほどして周囲に入植者も増え 父も多くの公職を持ち新しい部落づくりに東奔西走の日が続いた その間の冷湿害による凶作は現代の農業機構と異なり完治農業の対応なく 経済苦難は筆舌につくし難きものがあった 地主の温かい配慮から農耕馬の貸与を受け 当時珍しい輸入デスクハローや婦女子の慰安娯楽のためのドイツ製高級蓄音機の贈与を受けたことは当時の地主としては稀な行為であり感激の至りであった 忠作また誠心誠意開墾にあたり視察には農場内の最高所に筵を敷いての宴席で親愛こもる心のふれあい交歓が行われ懇親を深めた よくある小作争議の片鱗だになく 後日父忠作も小作調停委員の一員として村内一巡の当地に入るや 全く調停の余地がなかったという 戦後昭和21年自作農創設により農地開放となったがうるわしい開墾の歴史ある泉町の発祥を記念し地主の深く温かい恩義に報いたく また逞しい開拓先人の農魂を後世に伝えるとともに 此の地が永遠に農業に生き抜き繁栄隆盛せんことを希求して 茲に開拓記念碑を建立した 尚 石材は本年8月7日の有珠山大爆発を思い 有珠石を使い「賜水農園」の文字は開拓の当初に地主が農場繁栄を祈念して大木遠吉氏に記号を依頼したものである 「農魂」それは父忠作の逞しい根性の象徴である 昭和52年12月10日 小出忠農夫
コメント