木下弥八郎君之碑

石碑・銅像・胸像(歴史上の人物)

令和6年(2024)5月9日(木) 札幌市中央区南10条西2丁目

 仕事で中央区の中島公園に来て、標記の碑を撮影。以前も来たが冬で雪に埋もれていた。地図上では3本の道路に囲まれた小さな三角形の空き地になっており、そこに石碑が建てらている。「歴史のあしと札幌の碑」さんを参考に碑文を転載。本当に助かる。

 木下弥八郎氏は56歳の時に来道し、札幌の開拓に身命を捧げた但馬(たじま、今の兵庫県)豊岡藩の元家老。彼の功績を讃えるため、大正10年1月に石碑が建立された。碑文は総理大臣原敬 、題字は元総理で後に元老に列せられた西園寺公望の手によるもの。

【木下弥八郎君之碑】
 表面「木下翁碑銘 正二位大勲位公爵西園寺公望題額 翁諱守共稱彌八郎木下氏出於美作守半助子頼繼殉大阪役遺孤勘兵衞八歳亡在京師黒谷後以徳川秀忠命客田邊城主京極氏京極氏移封豊岡從之世為重臣勘兵衞有女理玖歸大石氏生主税主税赤穂義士領袖也考諱元智妣舟木氏翁以文政九年十一月生藩邸幼好學就櫻井藤陰游弱冠來江戸師事遠藤勝助杉山東一郎肆力文武業成帰藩適国家変故海内騒然藩侯有命更遊水戸執質會澤正志藤田東湖門聽其説深慨 王室式微歴訪諸藩與勤 王之士交将以大有為至棚倉會得父疾報星夜電馳還江戸藩邸店舗十四年襲父任老職決定藩論奉勤王大義主創稽古堂聘藤澤東畡於大阪池田草庵於八鹿大講實學招金子武四郎於水戸盛奨武術闔藩士氣翕然而起未幾澤宣嘉平野國臣南八郎美玉三平北垣國道等以三條實美旨糾合義徒於生野與翁有黙契桂小五郎亦來投文久三年八郎等首擧義於銀山幕府令本藩討伐翁按兵故不進迨義徒敗幕府追窮愈嚴藩侯恐累或迨遷翁爲文武局總裁翁廼專意育英抜擢人材訓督有方他日濟濟多士出於本藩黼黻中與者蓋與有力焉建櫜之日鎮撫使西園寺公望巡行山陰翁從之觀王化既洽感激自誓曰幸拜 天日報効有道吾輩豈宣優游暇逸哉擧家遷北海道從事拓殖晴畊雨讀開荒底績明治三十八年十月三十日歾札幌之居壽八十一葬于外郊臥龍山麓翁天資剛果慨然挙國其在江戸東湖屢過以謂爲尊攘先鋒書旗章魁字與之三輪田元綱嘗梟足利氏像幽囚本藩翁能庇護之令得不匱銀山之敗指畫百万奔竄義徒國臣小五郎等皆受蔭櫻田之變亡命來投者亦傾産奉給配荒木氏有四男四女冑成太郎嗣爲衆議院議員侠氣激人頗有父風與予友善次三四彦爲辯護士亦有令名女皆歸他 皇上登極之八年特 旨贈正五位追録前烈 天恩優渥可謂死而有餘榮矣銘曰 革乎維時 彪変迪吉 帝監曷明 勑旌亮節 於戲伊人 億載匪滅 斗辰之野 大邦之北 大正十年一月 内閣總理大臣正三位勲一等原敬撰 土屋久泰書 井龜泉刻」

(現代語訳)
 裏面「内閣書記官長高橋光威貴族院議員松本剛吉詩人結城琢國學院大學教授新田興諸君賛建碑之擧斡旋大勤謹誌以表謝意 勲四等政友会総務 園公病餘揮毫遅 茲歳戊辰秋建之 木下成太郎識」木下翁(木下守共・通称弥八郎)は、美作国の木下氏の出である。祖先の頼繼は大坂の陣で戦死し、その遺児であった勘兵衛は八歳で京都・黒谷に身を寄せた。その後、徳川秀忠の命により、田辺城主・京極氏に客分として仕え、京極氏が豊岡に移封されるとこれに従い、代々その重臣となった。勘兵衛には理玖という娘があり、大石氏に嫁いで主税(大石内蔵助)を生んだ。すなわち赤穂義士の総領である。翁の父は元智、母は舟木氏である。翁は文政9年11月、藩邸に生まれ、幼いころから学問を好み、櫻井藤陰に学んだ。若くして江戸に出て遠藤勝助・杉山東一郎に師事し、文武に励んで業を成し、帰藩した。折しも国家は変動し、世情は騒然としていた。藩主の命により再び水戸に遊学し、会沢正志斎・藤田東湖の門に入り、その説を聞いて王室衰微を深く嘆いた。諸藩を歴訪して勤王の志士と交わり、大いに志を立てて棚倉に至ったが、父の病の急報を受け、星夜を急いで江戸藩邸に戻った。まもなく、沢宣嘉・平野国臣・南八郎・美玉三平・北垣国道らが三条実美の意を受け、生野で義挙を企て、翁とも暗黙の契りがあった。桂小五郎も来訪した。文久3年、八郎らが銀山で挙兵したが、幕府は本藩に討伐を命じた。翁は兵を動かさず進まず、義徒が敗れると幕府の追及はいよいよ厳しくなった。藩主は累が及ぶことを恐れ、翁を文武局総裁に転じた。翁はここに専心して英才を育て、人材を抜擢し、訓育は行き届き、後日、本藩から多くの優れた人物が輩出されたのは、翁の力によるところが大きい。戊辰の役のころ、鎮撫使として西園寺公望が山陰を巡行した際、翁はこれに従い、王政復古の実情を見て深く感激し、「天恩を受けた以上、道をもって報いねばならない。我らが安逸に流れることがあってよいはずがない」と誓った。その後、一家を挙げて北海道に移住し、拓殖に従事した。晴れの日は耕し、雨の日は読書し、開墾に励んだ。明治38年10月30日、札幌の居宅で没し、享年81。郊外の臥龍山麓に葬られた。翁は天性剛毅で、天下のために身を投じる気概があった。江戸にあったころ、藤田東湖はしばしば翁を訪れ、「尊王攘夷の先鋒」と称し、旗に書く魁字を与えた。三輪田元綱が足利氏の像を梟首し本藩に幽閉されたとき、翁はこれを庇護して困窮させなかった。銀山挙兵の敗北後、義徒が逃亡する際には、国臣・小五郎らも翁の庇護を受けた。桜田門外の変後に亡命してきた者にも、翁は財を傾けて援助した。天保14年、父の跡を継いで老職となり、藩論を勤王に定めた。稽古堂を創設し、大阪から藤沢東畡、八鹿から池田草庵を招いて実学を講じ、水戸から金子武四郎を招いて武術を奨励した。藩士の気勢は一気に高まった。妻は荒木氏で、四男四女をもうけた。長男・成太郎は衆議院議員となり、侠気に富み父の風をよく受け継ぎ、私とも親しかった。次男・三四彦は弁護士となり名声があった。娘たちもそれぞれ良家に嫁いだ。天皇陛下御即位八年、特旨により正五位が贈られ、往年の功績が追録された。天恩の厚さは、まさに死してなお余りある栄誉といえる。

(以下、銘文の意)
時代は革まり、変動は吉へと導かれ、帝の御監察は明らかであり、勅命はその節義を照らす。ああ、この人の節は万世に滅びることがない。北の大地にその名は残る。

大正10年1月
内閣総理大臣 原敬 撰
土屋久泰 書
井亀泉 刻(裏面)
内閣書記官長・高橋光威、貴族院議員・松本剛吉、詩人・結城琢、國學院大學教授・新田興ら諸氏が、碑の建立に尽力されたことを記し、深く謝意を表す。
勲四等・政友会総務
園公は病後のため揮毫が遅れた。
この戊辰の年の秋に建てる。
木下成太郎 記

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