千間道路・不動明王・美唄達布地区の史跡

古木

令和6年(2024)5月11日(土) 岩見沢市北村温泉~石川啄木歌碑~千間道路・不動明王堂~美唄達布地区~松浦武四郎宿泊地~北村市街 16.1km 2時間14分

 石川啄木歌碑と北村牧場の碑を後にして道を戻る。強烈な向かい風である。そして右折し、川沿いの農道を走るとさらに強烈な向かい風になった。タンポポの花が綺麗だ。次の目的地は松浦武四郎宿泊の地である。ライスターミナルのところの交差点に大きなポプラの木があり、そこにお堂があった。

【千間道路・不動尊堂】(説明紙の概要)
 道道6号線、道道129号線の交わる交差点から石狩川古川の不動明王堂までの直線道路を千間道路(1800m)と呼んでいる。明治33年、喜多村が岩見沢から分存する以前から存在。この不動明王堂は、かつてこの地で亡くなったある婦人の冥福祈願のために開村当時に建立。この地には北村で最大級のポプラやハルニレなど数本の大木がそびえたち、開拓当時の面影を偲ばせている。

 千間道路を後にし、道道139号線を南下すると石碑と神社があった。この辺は美唄達布地区と呼ばれ、片倉農場があったところだ。

【自作農創設記念碑】
 本創設地片倉農場場主片倉合名会社ハ社長貴族院議員片倉兼太郎殿副社長片倉勝衛殿ニシテ製糸王トシテ夙ニ其ノ名有リ明治三十六年本地域ニ百十三町歩ヲトシテ開拓ノ業ヲ創始ス爾来三十七星霜其ノ間屢々水害凶作ニ遭遇シ幾多ノ艱難ニ逢着シタルモ一意企業ノ進歩ト耕作者ノ生活安定ヲ図リ耕作者亦場主ノ恩恵ニ感奮シ孜々トシテ開墾耕作ニ専念シタル結果昭和十一年地内治水工事ノ完成ト相俟テ開拓ノ業全ク成リ経営ノ基礎確立スルニ至ル茲ニ於テ場主ハ農村更生ノ要請ハ自作農創設ニ在リトノ固キ信念ノ下ニ農地ノ開放ヲ決意セラレ一面村当局及関係諸氏ノ深甚ナル斡旋ニ依リ自作創設資金ノ貸付ヲ受ケタル吾等三十七名ハ父祖伝来ノ宿題漸ク達成シ茲ニ自作農タル第一歩ヲ印シ更生ノ曙光ニ浴スルヲ得タリ仍テ一同相謀リ償還組合ヲ結成シ相扶共励益々農業報国ノ赤誠ヲ捧グルノ決意ヲ固ムルト共ニ場主ノ鴻恩ヲ永ク子孫ニ肝銘セシムル為本碑ヲ建立ス

 上記石碑の隣は、諏訪神社であった。
【諏訪神社由緒】
 当初、美唄達布の大半は長野県諏訪の片倉組の農場であり、農場管理者小木曽文太郎氏が開拓の守護神として故郷の諏訪明神を奉祀すべく、最古参地主の高岡嘉平氏の賛成を得て安達甚左エ門氏、広川徳松氏らの協力のもとに、(明治4年に)官幣大社諏訪神社から御分霊を(現社殿の右に)奉載創祀する。
 当時の祭日は九月十三日。神殿は葦葺き、四尺四方、拝殿は間口九尺奥行二間で、現在の社殿より五~六間川沿いに建立。昭和十三年現在地に新築され、昭和三十二年(地区住民が入りきれないので)増築される。平成元年七月 建立

 グーグルマップで調べると、松浦武四郎宿泊地は、川の反対側の方であった。少し戻って向かうと排水機場のところに石碑があった。

【松浦武四郎宿泊地記念碑】
 表面には上記のとおり刻まれ、裏面には次のとおり刻まれていた。「安政三年五月九日シノロ乙名(酋長の意)エンリシウ外九名、安政四年五月十三日トツク乙名セッカウシ外三名、同年閏五月二十一日上川(この地より上流の意)アイヌニホンデ外一名とともにこの処に宿泊 昭和三十四年九月五日 為 北村六十年記念建 築堤工事のためこれより四十五米先より移設し、開村八十年を記念してここに石碑を以って建之する。昭和五十四年十一月三日」

 松浦武四郎宿泊地を後にする。北村地区には酪農家が結構あり、面白いサイロが残っていた。市街地に戻ると真新しい北村神社があり、そこに北村亀翁頌徳碑があった。

【北村黽翁頌徳碑】
 表面には上記のとおり刻まれ、左下に「浄土寺開基 大僧都 霜田教善書」と刻まれ、裏面には次のとおり刻まれていた。「翁ハ本村多年ニ亙ル耕地ノ水害ヲ除カント志シ、曩
ニ空知支庁管内ノ同志ト相図リ北海道土功組合ヲ創立シテ其の理事者トナリ、昭和3年以来専ら北村支線組合長トシテ治水ニ尽瘁セリ、今ヤ当地方一帯ニ壱千弐百余町歩ノ美田ヲ見ルニ至ル是実ニ翁ノ竭誠努力ニ因ル所ナリ仍テ組合全員相諮リ茲ニ碑ヲ建テ以テ其徳ヲ頌ス 昭和24年5月」

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