北広島市廣島神社

石碑等(開拓記念碑)

令和6年(2024)6月8日(土) 北広島駅~(道道1080)~南幌町~(国道337)~幌向運河近くの農道~東野幌~野幌森林公園~新札幌駅 36km 5時間24分

 サロマ湖100kmマラソンを控え、走り込まなければならず、明日は美瑛ヘルシーマラソン(ハーフ)を控えているのだが、まだ走ったことがない北広島市の東側と南幌町を走ることに。
 走り始めてすぐに、廣島神社があり、ここも開拓の歴史の宝庫だった。

【廣島神社由緒】の石碑
 祭神 天照大御神 大国主大神 事代主大神
 広島県の人和田郁次郎は、北の未開地に一村を開発しようという大きな志をいだいて単身北海道へ渡った。明治十六年四月のことである。
途中、伊勢の國に立寄つて、皇大神宮に詣で、開拓の成を祈念すると共に、その御神霊を移住民のため守護神として申受けたのである。
 この地を開拓適地と認めて準備を進める事一年余、翌十七年五月二十三日、故郷の広島県から最初の移住者十八戸の人達をむかえた。この時、和田郁次郎は開墾地の一角、小高い清淨な地を選んで小さな祠を建て、伊勢で申受けた御神霊を安置した。これが即ち現在の場所であり広島神社のはじまりである。
 それ以来、広島開墾地の人たちは、最初の移住者が到着した五月二十三日を春祭と定め開村と五穀の豊穣を祈願し、十月十日を秋祭とし新穀を供へ感謝の誠を捧げてきた。
 明治二十三年には移住者の数も百三十戸に増え、開拓も大いに進んだ。「これもみな御神霊のおかげ」と和田郁次郎は願主となつて新社殿を建立し、この時、御祭神として大国主大神、事代主大神のニ柱の神々を増祀したのである。
 明治三十年、村民たちは力をあわせ「神社創立」を願い出た。翌三十一年それが許可となり、正だに無格社広島神社として認められた。以来、広島村民は社殿を改○し、専任の社掌を置き、社務所を建て、楢丸太造りの大鳥居を建て、更に神社財○を造成するなど広島村民の信仰を集めるにふさわしい規模を整えることに努めた。
 そして明治四十三年、村社に加列され、翌四十四年には神○幣供進神社にも指定された。これからは、春秋例祭、神嘗祭の折には広島村長は衣冠東帯を身につけ、村政の一般を報告するとともに幣○料を供○したものである。
 大正二年に移民子の数は八百戸にもなり、村社に列せられて以来、村民の信仰も一段と深まったことなどからそれにふさわしい新社殿を建立することになつた。再び和田郁次郎が大願主となり、総坪数四十坪、木造神明造の新社殿が、九月に完成した。
 その後も村民の信仰はますます深まり、昭和六年には、川田栄次郎、川田浅次郎の両氏から鉄筋コンクリート製の大鳥居が寄進されるなど神社経営も安定していたが、昭和二十年八月十五日の第二次世界大戦の終戦と共に社会情勢は一変した。村からの助成は○○○神社財産の多くは解放され、神社経営は苦悩を強いられることになる。
 宮司を○しめ総代一同はこの苦難に耐え、民子の信頼のもとに神社神道の回復に努力した。
 昭和二十七年、広島神社は宗教法人として認証され、昭和四十三年には社務所の改築も行なわれた。この間、昭和三十五年には秋祭が九月十二日に改められている。
 昭和五十八年には広島神社が鎮座して百年になるところから、この日に備え記念する事業として老朽化した社殿の新築が計画された。そして、昭和五十五年、神明造り鉄筋コンクリート造り、床面積百三十二平方米の新社殿が完成、その年の十二月正遷座祭を厳かに取り行つた。
 それ以来、新社殿には参拝者の絶えることなく、春秋の例祭も賑やかに行われ、御神徳はますます宣揚され今日に至つている。鎮座百年を記念して 
昭和五十八年 
大谷義明 謹んて誌す
山本優 謹んて書く

 境内に開村記念碑があり、その隣に説明板があったが、漢文でとてもではないが転載はできないので、北広島市のホームページから、和田郁次郎氏の功績を転載する。

【開村記念碑】説明板
 この碑は明治41年5月23日、広島村開基25周年を記念して建てられたもので、広島村開村の字状を知る上で貴重な資料の一つとなっています。
 碑文 札都之東五里地勢漸高・・・・・(略)

 明治17年(1884年)、和田郁次郎は野幌原野を開拓の地に選び入植。
広島県人25戸103人とともに移り住みました。
この年は厳しい寒さで未曾有の大凶作となり、冬を越すのも困難を極めた郁次郎たち。
翌年には、みんなで励まし合いながら田畑を耕し、見事な豊作に。郁次郎は農民たちに平等に土地を与えたため、移住者は次第に増え、明治26年(1893年)には380戸1,200人余りの大きな集落になり、米の生産量は北海道一を記録しました。
これらの功績を讃え、当時の北海道庁長官は「和田村」と名付けるよう提案しましたが、郁次郎は「皆で開拓したので」と固辞。仲間たちの故郷にちなみ「広島村」と名付けたのです。
その後も、郁次郎は郵便局長を務めながら、学校や寺院への援助を行うなど、村の発展に尽力。たゆまぬ努力でまちと人をリードした精神は、北広島が掲げる「交流」のまちづくりにつながっています。

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