音更町中士幌の開拓之碑など

石碑・銅像・胸像(歴史上の人物)

令和6年(2024)6月15日(土)音更町中士幌

 道道316号線を南下し、士幌町から音更町に入り、音更中士幌神社のところにたくさんの石碑があった。

【開拓之碑】
 巨大な石碑に上記のとおり刻まれ「音更町長金子尚一書」と刻まれその横に黒御影石の碑文があった。「碑文 東北北陸の各県更に遠く岐阜 香川から北の大地音更町の士幌川沿に新天地を求めて入植した先人達は太古未開の原野に開拓の鍬をふるい 明治33年からこの地を永住の地とした 巨木を倒し冷湿害に難渋しながら田畑を拡げ学舎を開設して 子弟の教育に努め 橋をかけて 交通を便利ならしめ 今日の基礎を築いた苦労は想像に余りある豊かな大地に変貌した この地開拓の歴史はくしくも開基90周年を迎えた音更町と同じくしまた皇紀2650年国では大嘗祭の行われるこの年に私たち井は開拓の碑を建立し先人達の苦労と偉業を偲び且つこの平和と繁栄を構成を伝えることを誓う 平成2年9月吉日

 開拓の記念碑の奥の方にまた石碑があった。

【故脇原清輔翁頌徳】碑 
 従六位勲五等と刻まれ上記のとおり刻まれている。碑文の概要は次のとおり。「脇原清輔氏は、明治二十五年岐阜県に生れ、同四十一年渡道し農業に従事。音更村会議員を三十余年、この間音更町議会議長、十勝町村議会議長等を務め、いくつもの農業団体の要職にあって産業開発に努め昭和四十一年に没した。叙勲の他、音更町は名誉町民の称号を贈った、旨刻まれてゐる。背面には、全町有志、地域住民の協賛を得て翁縁の当地に建立した旨記されてゐる。昭和四十一年十一月吉日付け。

 さらに奥に、顕彰碑があった。碑文は劣化が進みよくわからないが、次のとおり概要が刻まれていた。

【平田助市翁顕彰】
 上記のとおり刻まれ、「国務大臣???」と刻まれ、概要は次のとおり。「明治十七年岐阜県に生れ、同三十一年中士幌武儀に入地、後柏葉に移住し農耕の傍ら森林の育成にも傾注、大正五年以降村会議員として、後道議会議員として十有余年、この間重要公職を歴任、特に農林行政開発等に寄与した功績は大。徳を称え敬慕する者により顕彰碑を建立し後世に伝える、昭和三十三年十一月。碑背には碑の建立に当った二十七人の氏名が記されてゐる。その中には脇原清輔の名もある。」

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