令和6年(2024)7月5日(金)米沢市中央~米沢城址~米沢藩主上杉家墓所 5.5km 1時間14分
歴史上の元勲の碑が林立している。幕末の米沢藩の最後の藩主「上杉茂憲」公の説明板があった。以下は、米沢市のホームページから転載(説明板と違うが容赦)。
【上杉茂憲公】
上杉茂憲は、弘化元年(1844)、第12代米沢藩主斉憲[なりのり]の長子として米沢城に生まれました。幼名は龍千代、弘化3年に米沢藩の世子となります。万延元年(1860)に元服して将軍の一字を賜り、茂憲と改称しました。
慶應4年(1868)に鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍に対抗します。米沢藩は仙台藩と共に列藩同盟の盟主となり、越後などに派兵して新政府軍と戦いました。長岡城の落城を受け、米沢藩は降伏、その後は官軍の先鋒となり庄内討伐に赴くとともに、会津藩の降伏も促すなど、戦闘の終結に奔走します。この間、茂憲は斉憲の代理として新発田で官軍に降伏の意を表し、その後は庄内征討に従事するなど、米沢藩世子としての役割に尽力しました。
戊辰戦争に勝利した新政府により、列藩同盟にくみした東北諸藩は処罰され、米沢藩では藩主斉憲の隠居が命じられ、領知は4万石の減封となりました。斉憲の隠居に伴い、茂憲が家督を継ぎ、最後の米沢藩主となります。明治2年、版籍奉還があり、茂憲はそのまま米沢藩知事に任命されました。2年後の明治4年には廃藩置県により米沢藩は廃止となり、茂憲は免官、東京への移住を命じられて米沢を去ることになります。
明治5年から2年間は英国に留学し、世界情勢や王制政治のあり方、先進国の産業・経済・福祉の実情を学びました。この英国留学の経験は、のちの茂憲の思想や行動に大きな影響を与えたと言われます。その後は、宮内省に勤務し、第二部・第四部部長などを歴任しました。
明治14年、茂憲は第2代沖縄県令兼判事に任命され、沖縄に赴任しました。県政刷新と旧習打破を掲げ、自ら沖縄全島の巡視に出向き、農民の実情・税制・教育・産業・風俗習慣などについて詳細な調査を行うとともに、県民の声に広く耳を傾けました。
全島巡視で県民の苦境を知った茂憲は、上京し関係各省や大臣などを訪れ、県民の負担軽減を柱に沖縄県政の大改革を訴えます。さらに内務省へ意見書を提出するも改革の上申は受け入れられず、明治16年、沖縄県令を免官され元老院議官となりました。茂憲は、沖縄(琉球)で生まれた四女に「琉[りゅう]」と命名し、教育資金として多額の私費を寄附するなど沖縄には大変強い思い入れがありました。
その後、明治17年に華族令の施行で「伯爵」の爵位が授けられ、明治23年には貴族院議員となりました。
明治24年、茂憲の東京から米沢への移住が決まりました。移住は茂憲の意向に加え、米沢では「将来上杉家百世の基礎を定めん」という人々の思いがあり、新邸宅の建設が進められました。明治29年、新邸宅が完成すると、茂憲は家族とともに米沢へと移住しました。この邸宅は「鶴鳴館」とも呼ばれた530坪余の広大な建物でしたが、大正8年の米沢大火で焼失、大正13年に再建され、現在は「米沢市上杉記念館」として国の登録文化財となっています。
茂憲は常に謙信・鷹山の末裔であるという意識を持ち、米沢の教育振興、産業発展に力を注ぎました。大正8年、76歳で亡くなると、東京都港区の興禅寺に葬られました。米沢の上杉家墓所には遺髪を納めた「正二位上杉茂憲公瘞髪[えいはつ]碑」が建立され、歴代藩主の廟の中に佇んでいます。
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