米沢市(旧西條天満神社)

神社

令和6年(2024)7月5日(金)米沢市中央~米沢城址~米沢藩主上杉家墓所 5.5km 1時間14分

 お昼で出張は終了。午後より自己研鑽のため山形県内の史跡を訪問することにする。今日の目的地は米沢市。新庄市から山形新幹線で米沢市に向かう。在来線の上を走る新幹線であり、トレッド幅が変更できる。一昨日タクシーの運転手は、在来線を走ると遅く、専用線の新幹線が必要と言っていたが、個人的には在来線廃止とならないことは良いことだと思うが、問題は複雑だ。
 さて、ホテルに荷物を預けて市内を走り始めるとすぐに広場に出る。社殿はないが天満神社の石柱があり、説明板があった。後で調べると、奥の方に社殿があったようだ。

【西條天満公園】
 西條天満公園は、米沢藩の侍組(上級家臣)である西條家の屋敷跡で、背後の三の丸土塁の上には、菅原道真と西條倫房を祀る西條天満神社がありました。現在は本殿と拝殿であった建物が残っています。
元弘2(1332)年、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒に失敗して隠岐島(島根県)に流されました。翌元弘3(1333)年、天皇は島から脱出を試みますが、その際に船頭を務めたのが市川倫房です。倫房は天皇をかくまい、追っ手をうまくあざむいて無事に伯耆国(鳥取県)に送り届けました。
その後、建武の新政を成し遂げた天皇は倫房の功をたたえ、自筆の菅原道真画像とともに、信州(長野県)西條の地に領地を与えました。
 倫房は姓を西條と改め、道真を祭る天満宮を建立しました。子孫は武田に仕えていましたが、武田氏滅亡後には上杉の家臣となって、信州から米沢に移りました。米沢では上級家臣が住む門東町に屋敷を拝領、土塁の上に天満宮を移し、菅原道真と先祖の倫房を祭りました。
 明治維新後は西條家のみならず、地域の人々からも学問の神様として信仰されました。
 昭和9(1934)年には西條天満神社の境内整備が行われ、鳥居や灯籠と共に社標(神社の名称を刻んだ石柱)が建てられました。文字は側面にあるように、海軍大将黒井悌次郎の筆によるものです。
悌次郎は、米沢藩士黒井繁邦の次男として米沢の袋町(松が岬2丁目)に生まれました。海軍兵学校を卒業し、日露戦争では銃砲隊を指揮して旅順攻略戦に従軍しました。
その後は第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官を経て、大正9(1920)年には海軍大将に昇進しました。
また、悌次郎の祖母・繁乃は「国字四書」の話で有名です。7歳で父を失った繁乃は母の手で育てられ、19歳で夫を迎えました。しかし翌年、その夫も生まれたばかりの息子を残して亡くなりました。繁乃は息子の繁邦が7歳になると、隣家の糟谷先生のもとで学問を習わせました。初めに習うのは「大学」「中庸」「論語」「孟子」のいわゆる四書です。漢字を知らない繁乃はこっそり糟谷家の軒下にたたずみ、窓からもれる先生の音読を平仮名(国字)で記し、家で繁邦と一緒に復習しました。こうして2年の間に、繁乃は四書の全てを書き写しました。繁邦は藩校・興譲館で優秀な成績を収め、やがて成人して町奉行になりました。
後に母の愛情と努力を知った繁邦は、母が書き綴った仮名書きを「国字四書」として家宝にしました。この話は大正・昭和期の高等小学校教科書に取り上げられ、繁乃は親の鑑と讃えられました。
神社がある小高い土手は米沢城三の丸土塁の跡で、その手前には幅の広い堀がありました。慶長13(1608)年、直江兼続の指揮で築かれたものです。
土塁と堀の大きさは左下の断面図に示したように、土塁の高さは二間三尺(4.5m)、堀は幅十五間(27m)と規模の大きなものでした。左側端の堀幅が当時に近い幅です。また、堀沿いの幅の狭い道は町人町の裏を通り、堀の管理用に設けられ、防御施設である土塁と堀を旅人に見せないよう武士だけが通られる道で「武者道」と呼ばれています。
明治維新後は土塁の上に料亭等が建った場所もありましたが、次第に削り取られ、堀も埋められて宅地となり、土塁跡が残るのはこの場所と、粡町公園(中央四丁目)だけになりました。米沢城三の丸土塁の面影を伝える貴重な遺跡です。
平成22(2010)年に宗教法人西條天満神社は解散し、平成24(2012)年7月に中央2丁目の皇大神社境内に移され、現在は建物だけが残っています。

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