餐霞館遺跡・直江兼続屋敷跡・正應山常信庵

寺社

令和6年(2024)7月6日(土) 米沢市内

 ホテルをチェックアウトし、次に乗る電車まで時間があるので、スーツケースを引っ張りながら、市内の史跡訪問した。米沢城のお堀の南側には上杉鷹山が隠居した建物があった。そして、その近くに「細井平洲先生の逗留邸跡」があった。

【餐霞館(さんかかん)】米沢市城南一丁目、米沢市のホームページ等から転載
 天明5年(1785)2月、鷹山は35歳で隠居し、家督を養父重定の次男治広に譲りました。この時治広に藩主の心得として渡したのが有名な「伝国の辞」です。そして9月には、米沢城本丸から三の丸の餐霞館に、側室お豊の方と長男顕孝と共に移り、以後72歳で亡くなるまでの38年間、治広および斉定の藩政をこの住居で指導しました。
 土地の広さは約3,000坪で、餐霞館は上段・二の間・寝間・書斎や奥方の部屋など40あまりの部屋がある大きな平屋の建物でした。ただし、生活は以前と同じく質素を心がけ、生活費増額の申入れを断わっています。
 「餐霞館」の名の由来は、霞を食べる事、つまり世俗を離れ仙人のような清貧の生活を営む住居の意味と思われます。また、城の南に位置するので「南亭(なんてい)」とも呼ばれました。
 鷹山は餐霞館で藩政を指導すると同時に、長男顕孝や甥の宮松(後の斉定)の藩主教育にも情熱を注ぎました。
 天明5年、餐霞館に移った時、顕孝は10歳で、世子(藩主の跡継ぎ)となりました。鷹山はこの顕孝の周りに仕える家臣に対し、14ヵ条からなる壁書を示し、最後に「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」の歌を添えました。
 壁書の内容は、「孟母三遷(もうぼさんせん)」のたとえにもあるように、周囲の言行が大切であるとし、世子の近くで話すべき7ヵ条(孝行・譲・武勇・家臣・農事・文芸など)と話すべきでない7ヵ条(金銭の損得・飲食・軽口・悪口など)を示したものです。様々な情報が入り込んでくる現代社会には、耳の痛い内容です。
 顕孝は鷹山や家臣たちに期待されていましたが、惜しいことに19歳で病気で亡くなりました。その後鷹山は、世子宮松と寝食を共にし、藩主教育に勉めました。
 餐霞館は鷹山の死後、支侯(分家)の住居となりましたが、明治以後は一部が公園となり、昭和45年、鷹山公初入部200年を記念し庭園が整備され、顕彰碑が建てられました。顕彰碑には三坂耿一郎作の鷹山のレリーフと「なせば成る…」の歌が刻まれています。

 もう少し駅の近くに行くと「直江兼続屋敷跡」であった。普通の人家である。

【直江兼続屋敷跡】説明板の概要:山形県米沢市城南1丁目1
 上杉の智将として知られる直江兼続の屋敷があった場所。慶長6年、上杉景勝は関ケ原の戦いで徳川に対抗したことで会津120万石から米沢30万石に削封された。以後、直江の指揮で米沢城下が整備された。直江は石堤や御入水堰、帯刀堰などの治水、用水に力を入れ、拡張した城下の町割にも細かな指示を与え、現在の米沢の基盤を築いた。直江の屋敷は、この南堀端町から旧花岡町にかけての一角にあったと言われる。維新後に地番を付けた際、この直江屋敷一番地とした。

 その後「米織会館」、「山形屋染物店」といった古い建物を通る。

 そして駅の近くに義経ゆかりのお寺があった。米沢は歴史で溢れている。

【正應山常信庵】源義経ゆありの古刹 説明板概要
 花沢城主、佐藤庄司正信(奥州藤原氏の重臣、佐藤元治の一族)とその子佐藤継信、忠信兄弟の菩提を弔うため、正信の後室が建立した寺と言われています。継信は屋島の戦いにて平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって討ち死した。忠信は、兄頼朝と不和になった義経と一行が吉野山に逃れたとき、あやうく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させ、後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。
 入り口には「源九郎判官義経公接待遺跡」の標柱が立っている。義経が兄頼朝に追われ、奥州藤原氏を頼りに逃亡する途中、この寺院に立ち寄ったとされ、義経伝説の一つ。一行が庄内をさけて内陸に入り、羽前米沢に立ち寄り、自分の盾となって討ち死にした忠臣、佐藤継信、忠信ゆかりのこの寺に立ち寄り、「きゃらぼく」の木を植えて菩提を弔ったという(以下、略)。

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