平原の上に聳ゆる山

石碑・銅像・胸像(歴史上の人物)

令和6年(2024)8月9日(金) 新得町瓜幕

 お休みをもらい札幌に帰る途中、国道274号線と道道屈足鹿追線の交差点のところに石碑があった。大正時代に東大雪山系を踏査した大島亮吉の碑であった。28歳で登山中の事故でなくなったという。

【平原の上に聳ゆる山・大島亮吉の碑】
 上記のとおり刻まれ、その右側には「北海道知事高橋はるみ書」と刻まれ、その横には碑文があった。「大島亮吉 東京都芝区生(明治32年~昭和3年)その頂とはその曠野の潤(ひろ)やかな胸に位した東西の双耳峰のひとつ西ヌプカウシの頂であった。それはアイヌ語の山名にて、洵(まこと)にその意義は「平原の上の聳ゆる山」と謂うと。私は想った。広潤なる荒野のただなかにあって只管(ひたすら)汗をもってそれを懇き耕す開墾者のその池にまでいたせし力のあとを。この高みより見下せば、ただその黒き斑点としてのみのぞまるるものが、この荒野の広袤に対してこれまで撓(たゆ)みなくなされた彼等の努力であるのか・・・。大正12年鹿追村売幕(現瓜幕)の地より、東大雪山系を踏査し、紀行文を全国に発表した。ここに東西ヌプカウシ(市か甥では古くから夫婦山という)の望む地に、その足跡を表す。」

 明治32(1899)~昭和3(1928)年。登山家。東京生まれ。
 大島亮吉は大正から昭和初期に登山家として活躍した。28歳の若さで登山中の事故で亡くなる。その活動の中で北海道を訪れたのは大正9年と12年。若くして多数の著作があり、国内の名峰について数多くの登山記を遺している。彼の著作、『山―研究と随想』等は日本の山の名著として数えられている。登行・筆力が高く評価され、その早すぎる死が惜しまれた。

大島亮吉と鹿追とのかかわり
 大正12年、この地を訪れた。然別川上流のシイシカリペツ川、鹿追町瓜幕(当時は『売幕』と表記されている)から然別沼(当時の表記で、今の然別湖)へと、道なき道を行くその旅程についての紀行文『北海道の夏の山にて』を大正13年に発表した。

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