音更町木野の史跡

戦跡・古戦場

令和6年(2024)9月10日(火)音更町木野 11.2km 1時間33分

 今日は午後にお休みをもらい病院に行ったあと時間ができたので、音更町木野を史蹟訪問ランニング。結構な場所の標柱を訪問できてラッキー。今回の旅は次の音更町史跡文化財マップというのが役立った。まだ未踏の地があるので今後これを参考に訪問しよう。尚、今回は松浦武四郎止宿地は見つけれなかった。 https://www.town.otofuke.hokkaido.jp/kyoiku/bunka/shiseki_bunkazai_map.html

【木野村農場跡地】木野大通東9丁目2番地3 明治 29(1896)年、岐阜県本巣郡生津村字柱本、木野村甚太郎ほか 2 名は約163ha を無償で払い下げ出願(許可は明治 31 年)。土地は北 3 線から北 6 線、基線から東 4 号の区間。小作人は岐阜県から 20 戸が移住しました。農場管理人は八代哲次。明治 30 年初めに農場の一角を借り「上野製軸所」がマッチ軸を製造していました。大正 14(1925)年、国鉄士幌線が開通し木野駅が開設。事務所を木野大通東 9 丁目に移転。駅近くに木野雑穀工場を設置し 20 人位で雑穀を精選し販売していました。今日、農場跡地は国道241号線を中心に市街地が形成されています。

 ヲトケフブトと松浦武四郎止宿地を探しに東の方に走ったが見つけることができなかった。しかし、十勝温泉帯広自転車道を見つけた。約20㎞、往復で40km、今度走ってみよう。
 今度は、越中渡し跡を探しに十勝川沿いへ。住宅地を抜けて河川敷にそれはあった。

【越中渡し跡】宝来南2条7丁目
 十勝・音更の開拓にとって、渡し船は、重要な交通手段でした。越中渡船場は、この地モツケナシ(富丘)とオベリベリ(現帯広市立東小学校付近)間を往来する「渡し船」として、明治 33(1900)年 7 月官営で開設され、後に民間委託で越中人の新居氏が経営したので「越中
渡し」と呼ばれました。人だけでなく、牛・馬・馬車・馬橇(ばそり)等を運び、当時は、音更と帯広間の重要な交通手段でした。渡船場近くには、待合所や日用雑貨店、後には中島雑穀検査所もできるなど、収穫時の秋には特に往来する人で賑わいました。しかし、昭和 15(1940)年に「十勝大橋」が開通するなど、越中渡しは、昭和 27(1952)年その役割を終えました。

 今度は十勝大橋の方に戻るため河川敷を走る。そして十勝大橋のところの高台に開成橋跡の碑があった。
【開成橋と十勝大橋】木野大通西1丁目2番地
 明治 38(1905)年 5 月、十勝川両岸の有志は「帯広音更架橋組合」を作り、私設で有料の、十勝川初の木橋「開成橋」(橋長 94.6m)を架橋しました。通行料は人 2 銭・馬 4 銭・馬車 8 銭でした。この年、釧路・帯広間に鉄道が開通し、音更村から帯広町への雑穀等農産物が持ち込まれ、往来は活気に満ち溢れました。その後、洪水で何度も流失。明治 44(1911)年国費の木橋「河西橋」(橋長 112m)。大正 10(1921)年に 2 代目「河西橋」(木橋、橋長185m)。昭和 15(1940)年、東洋一のコンクリート橋「十勝大橋」(橋長 369m)。平成 8(1996)年斜長橋「新十勝大橋」(橋長 501m)と架け替えられました。

 最後に鈴蘭町方面にある2カ所の軍事史跡である。鈴蘭公園から行こうと思ったが、結構道が入り組んでいて迷うが、いずれも住宅地にそれはあった。

【北部91部隊弾薬庫跡】中鈴蘭南1丁目2番地23地先
 陸軍の弾薬などを保管するために昭和18(1943)年頃に建設されました。横14.45 m、縦 7 m、高さ 4.25 mの鉄筋コンクリート製で高さ 10 mほどの土のうに覆い隠されていました。戦後、土地と建物は払い下げられ、住宅に改修され利用されていましたが、令和元(2019)年 9 月に取り壊されました。コンクリートの分厚い壁や建物の数倍に及ぶ基礎部分が弾薬庫の面影を残していました。

【北部91部隊と給水塔(高架水槽)】中鈴蘭元町1
 北部 91 部隊軍事施設とともに、昭和18(1943)年、コンクリート製・高さ20 mの高架水槽(給水塔)2 基が建設されました。帯広第2飛行場の飛行ルートに支障をきたすとして 1 基は倒壊され、もう 1 基(西側)は昭和 20(1945)年 7 月 14 日の音更空襲で米軍のロケット弾 2 発が命中、弾痕が残されたまま戦後 91 部隊兵舎が国立帯広病院(国立十勝療養所)となった後も平成 8(1996)年まで使用されていました。貴重な戦争遺跡として保存運動もされましたが、自然倒壊の恐れがあるとして平成 17(2005)年 3 月に解体撤去されています。


 

コメント