長沼町の開拓の石碑塔

石碑等(開拓記念碑)

令和6年(2024)9月15日(日)長沼町役場~長沼神社~長沼土地改良区関係石碑~馬追運河之碑 約8.6km 1時間20分

 連休は札幌に帰省中。当初は小樽で走ろうと思ったが、雨がやまないので、長沼町へ。ここは以前走ったことがあるが、土地改良区のところの石碑と馬追運河の碑をレポートしたことがなかったので、走って訪問することに。
 長沼神社を訪問すると丁度例大祭の開催中であった。

【長沼神社御由緒】
 明治三十三年長沼市街地に小社殿を建築し奉斎し、後に東三線北五番地の高台に移転し奉斎したのが、長沼神社の前身とされる。大正二年六月、官幣大社札幌神社の御分霊を御祭神として奉斎する鎮座地(現在地)を定め、社殿を建築し遷座祭を斎行した。大正十三年七月、長沼神社創立許可。同時に村社に列せられ、御饌幣帛料供進の神社に指定される。昭和十年、開村四十周年を記念し御社殿の御造営に着手。北海道庁の設計により元の樺太神社を基本とし、昭和十二年神明造の壮麗なる御社殿が完成し遷座祭を斎行、社務所移築完了した昭和十六年郷社に昇格。長沼総鎮守として社運隆昌の元が築かれた。昭和二十一年、宗教法人設立。昭和四十二年、旧社務所改築落成する。

 神社の前が広場になっていて、数多くの石碑が鎮座していた。中でも「豊水碑」は巨大である。これは長沼土地改良区の沿革や事業の概要が刻まれていた。
【豊水碑】
 巨大な自然石に上記のとおり刻まれ、その脇に「須藤良太郎」と添えられている。その下には、歴代の組合長や理事長、役員、理事、総代、支線長などの使命が刻まれていた。真ん中には「長沼土地改良区の沿革と事業の概要」が印されていた。以下は、概要・ポイントのみを転載する。明治19年北海道殖民地剪定事業により本湿原の開拓が企図され、翌明治20年5月岩手県人吉川鉄之助、長野県人渡辺伝二の両名が北長沼に第一の鍬をおろしここに開墾の炊煙をあげた。明治29年水源を夕張川に求めかんがい計画を樹てたが度重なる大水害のため挫折、先駆者の不屈の努力により明治40年7月長沼土功組合が設立。明治43年灌漑事業に着工、幾多の難関を克服し44年完成。大正5年夕張川の水利権を取得、地域の拡張と併せてかんがいの基礎を確立。昭和期の変遷に入り森林乱開されたことにより源流が枯渇。一時しのぎの水利対策をしたものの組合員の不安は増大。戦後食糧難から本道開発が重要視され、夕張川水系も脚光を浴び、大夕張ダムを基幹とする国営大夕張かんがい排水事業計画が設定された。昭和26年長沼土地改良区に組織変更、昭和28年大夕張ダムが着工、昭和34年西長沼土地改良区413ha、未加入地269haを統合、総面積437haとなり、昭和37年待望の長沼頭首工が完成、国営を始め道営、団体営の各かんがい排水事業は昭和35年までにそれぞれ完成。昭和47年以降、双葉、北長沼、至誠、優勢、西長沼、共栄に地区を拡げる。昭和60年に完成。(以下略)昭和61年9月吉日、長沼土地改良区 理事長 上坂清一撰文。

【みのりの像】
 上記のとおり書かれている台座に、男性の裸像が鎮座。その下には「長沼土地改良区 事業竣工記念碑」「北海道知事 町村金五」と記されていた。

【100MEMORIAL 長沼土地改良区】
 現代的な鉄のアートである。横に小さな説明板があった。概要は次のとおり。「昭和40年7月22日長沼村土功組合として設立、大正14年10月に本組合灌漑溝開削工事一連の竣工を祈念し長沼村土功組合記念碑を建立、昭和26年土地改良区に名称変更、昭和45年かんがい排水事業竣工、これを記念し昭和45年みのりの像を建立、創立80年を記念し昭和61年豊水碑を建立
(以下略)平成19年10月吉日

【記念碑】
 隣に、おそらく大正14年建立の「長沼村土功組合記念碑」と思われる。内容は前記と重複するので、割愛。

【長沼土地改良区開基五十周年 墾田頌】
 道路側に上記の碑があった。上記のとおり刻まれており、その下に「全国土地改良連合会長 小坂安太郎書」と刻まれていた。その下に特別功労者10名の名前が刻まれていた。裏面には建碑由来が刻まれていた。土地改良区の歴史の部分は割愛するが、米作りの歴史など重複しないところの概要を転載する。「長沼南部地区に入植した中野軍助氏は遠く明治22年配田内川より引水して籾二俵の収穫を上げた。これが長沼町水稲耕作の濫觴となり爾後沢水を利用する造田続出したのに鑑み当時の先覚者髙木悌二郎氏ら有志は千歳川沿岸一帯の系統的水利を企図(以下略)。昭和47年9月 南長沼土地改良区理事長」

 長沼市街を後にし、西の方に約3km走って馬追運河の碑を目指す。その碑は草ぼうぼうの中に鎮座していた。
【馬追運河乃碑】
上記のとおり黒御影石に刻まれ、その下に「長沼利雄」と刻まれていた。その下に碑文があった。以下、概要。「建碑の義 馬追運河は本町の幹線排水にして百年の歴史を目睫にす。そのかみ石狩低地帯は夕張川の自由蛇行氾濫の跡にして、いたるところ古川めぐり、無数の残沼隠在する泥炭の大湿原たり、第4代北垣国道北海道長官は「移民二先タツ者ナレバ最モ急施ヲ要ス」と宣言し石狩川下流域の大規模排水運河の一つとして、明治27年10月起工す。工事の経過は折から日清戦争の影響を受け、あるいは洪水により樹木流入して作業を妨ぐ。労働または苛酷にして土工哀史を刻むも、明治29年暫く完成して本道運河の嚆矢と謳われ、土地改良に著しい効果をあげ同時に江別間の船運にりようされり。長沼市街地の創立もこの恩恵による。以来馬追原野4300町歩の排水動脈として顕著な役割を果たしつつも星霜を経るにしたがい泥土堆積して機能低下す。よって大正10年及び昭和10年浚渫して排水を維持しつつも、戦後のうちの拡大、千歳川の逆流による内水の滞留により、却って本町西部の水害を助長するの姿を尽す。この間昭和36年からの連続洪水は水害の常習地帯として深く認識せられ、国、道の機関はあげて堤防の築造内水排除の機場を設置せられ、ついで昭和50年から大改修

 長沼市街を後にし、西の方に約3km走って馬追運河の碑を目指す。その碑は草ぼうぼうの中に鎮座していた。【馬追運河乃碑】 上記のとおり黒御影石に刻まれ、その下に「長沼利雄」と刻まれていた。その下に碑文があった。以下、概要。「建碑の義 馬追運河は本町の幹線排水にして百年の歴史を目睫にす。そのかみ石狩低地帯は夕張川の自由蛇行氾濫の跡にして、いたるところ古川めぐり、無数の残沼隠在する泥炭の大湿原たり、第4代北垣国道北海道長官は「移民二先タツ者ナレバ最モ急施ヲ要ス」と宣言し石狩川下流域の大規模排水運河の一つとして、明治27年10月起工す。工事の経過は折から日清戦争の影響を受け、あるいは洪水により樹木流入して作業を妨ぐ。労働または苛酷にして土工哀史を刻むも、明治29年暫く完成して本道運河の嚆矢と謳われ、土地改良に著しい効果をあげ同時に江別間の船運にりようされり。長沼市街地の創立もこの恩恵による。以来馬追原野4300町歩の排水動脈として顕著な役割を果たしつつも星霜を経るにしたがい泥土堆積して機能低下す。よって大正10年及び昭和10年浚渫して排水を維持しつつも、戦後のうちの拡大、千歳川の逆流による内水の滞留により、却って本町西部の水害を助長するの姿を尽す。この間昭和36年からの連続洪水は水害の常習地帯として深く認識せられ、国、道の機関はあげて堤防の築造内水排除の機場を設置せられ、ついで昭和50年から大改修に着手し、平成3年度を以て完成。住民の喜びこれに過ぎるはなし。しかし治水、排水の大業は永遠の町是にして、これをもって止まることを許さずなお将来に向かって努力をつづける決意を新たにし、ここに碑を建立し先達の功績を頌し後世に伝えんとせん 平成3年10月吉日」

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